2006年5月23日 第30回MKCRセミナー

発表者:管 宗次氏
      
武庫川女子大学文学部教授
       サブ・プロジェクトa5リーダー
題目:『伊勢名物通神風』の板木発見
    ─伊勢音頭の広がり─
日時:2006年5月23日(火)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    学術研究交流館1階大会議室(IR-101)
 
発表要約
『伊勢名物通神風』の板木発見
─伊勢音頭の広がり─
管 宗次


 一、 はじめに

 今般、東京のさる古書店に五枚一組が売り出された。主人は、「その板木の書名がわからない」というが、「五枚一組で揃っている」ともいう。東京出張中の慌しさもあって、即断してキャッシュカードで銀行から金を下すと、つつんでもらいそのまま大阪まで持ち帰った。

 板木は合巻本で、式亭三馬作・歌川国直画の『伊勢名物通神風(いせめいぶつかよふかみかぜ)』の本文揃いであった。長い書名の角書があり「牛車樓の総踊/桜迺間乃花競(ぎゆうしゃろうのさうをどり/さくらのまのはなくらべ)とある(図版A)。惜しむらく、多色刷の表紙と見返し、奥付の板木が無い。


図版A 朝日新聞2006年5月18日朝刊掲載記事

 『伊勢名物通神風』について、これまで研究などで取りあげられたもので要なものは次の2点である。

  • 尾崎久弥著作兼発行『江戸軟派叢書』(大正13年11月5日発行、江戸軟派研究発行所)
  • 林美一『江戸広告文学』乾(昭和32年9月1日刊、未刊、江戸文学刊行会)

 尾崎久弥の同書解題によると、次の如くである。

 三馬の「伊勢名物通神風」は、本文が示すが如く古市備前屋の自費出版、売物には不仕候の物である。唯「通ふ神」を材料にした所が面白く、且つ当時の古市風俗史の一端にもと思うて、此に収めた。「通ふ神」に就いては、古市吉原大全(明和五年)巻之三「かよふ神の事」の条にも、「道祖神をいく云々。すべて女郎の文の封じ目に、かよふ神と書くは、道祖神の守りありて、文を恙なく届かん事を祈る為也。昔揚屋町尾張屋清十郎方にかよふ神を勧請せしも、此里へ来る遊客、往来の節、障りなからん事を祈る故とぞ」とある。此の「伊勢名物通神風」の中の挿絵に「通ふ神」を描いて、その神体の頭に文を頂かせ、それにかよふ神と名を書きたるも、この浮節の踏襲である。唯この本文の「かよふ神」は遊客萬来を招致せしむる縁起の神としての如く取扱はれをる(尚、通ふ神、俚言集覧にもあれど、何ら解説を附してあらぬ。)(此書刊行:文化十五年(文政元年))。三馬が四十四歳の作、彼としては晩年の作である(彼は四十八歳文政八年閏正月に没した。)。画家の国直は、二十四歳の折の画、歌川豊国門下の少壮として、既に草双紙類の挿絵あつた頃の彼である。

 これをもって、『伊勢名物通神風』のおおよその概要は知られよう。

 二、式亭三馬の合巻

 林美一氏によって『江戸広告文学』のなかに、十返舎一九著『色摺新染形』、曲亭馬琴著『匂全伽羅紫舟』、為永春水著『寿こがねの大帳』などとともに収められ、広告文学と銘打たれているが、文学ジャンルでいうと、『伊勢名物通神風』はいわゆる草双紙の一種で合巻(ごうかん)にあたる。

 そもそも合巻は、草双紙の赤本や黒本からの体裁である一冊の紙数を5丁でまとめ、数冊で一編の筋をまとめとする。また合巻と称するのは、筋の長いものは数冊を合冊して中間の表紙を省いて製本過程の手間を減らしたことによる。合巻の作者としては、柳亭種彦(『正本製(しょうほんじたて)』)や曲亭馬琴(『金毘羅船利生纜(こんぴらぶねりしょうのともづな)』)などもあるが、代表的作家としては柳亭種彦(『偽紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』)をあげるべきで、合巻というジャンルの確立に預かったのは『雷太郎強悪物語(いかずちたろうごうあくものがたり)』の作で大流行をとった式亭三馬といえよう。同書は文化三年作で、滑稽本にも『浮世風呂』『浮世床』でも当りをとった三馬を戯作者としての名声を確立させた。

 三馬の父は菊池氏を称した。菊池氏は八丈島小島の正一位八郎大明神(祭紙を鎮西八郎為朝とする)の神官で三馬の父の茂兵衛は第八代菊池武幾(きくちたけひさ)の長男と伝える。茂兵衛は江戸浅草田原町三丁目の家主となって板木師を業としたと伝える。板木師という家業が三馬を文筆にむかわせたとしたら興味深い。

 三馬は寛政年中には本屋の養子となり、本屋家業の傍らに戯作の執筆にあたるなどしつつ、後には売薬店も開いている。なかでも「江戸の水」(おしろいのはげぬ薬ともいう)が大売れに売れて、売薬店兼執筆業となったりもしている。没年は、先にあげた尾崎久弥氏の文にもあるが、文政五(1822)年閏正月六日、享年四十七歳であった。

 よって、『伊勢名物通神風』は、既に合巻作家として世に知られた晩年の作で、江戸の著名な戯作者が遊郭の主人の求めによって筆を執ったものであり、式亭三馬の高名も広告効果の一端と考えたととってよいであろう。では、なぜ江戸の戯作者に依頼する必要を牛車樓の主人は考えたのであろうか。

 三、十返舎一九『東海道中膝栗毛』

 滑稽本の名作、『東海道中膝栗毛』には、弥次、北の訪れる先々に実在する様々な業種の店や宿が登場する。伊勢詣にことを寄せて、当時の男の旅は色気と食い気、土産の持ち歩くことの難しいため、みな食い気のほうは、実際に飲食して、その記録と日記や記憶にとどめ土産話としたし、色気では、旅先の宿で飯盛女のことなどを旅日記に「この宿線香短し」などと不平を述べながら励む男も少なくなかった。

 享和二年にはじまった『東海道中膝栗毛』も、いよいよ伊勢参官道に入った五編追加に、古市が大きく扱われている。次は、その一節である(図版B)。

図版B 十返舎一九『東海道中膝栗毛』五編追加(千束)

このやどのていしゅ「ハイハイ御用でおますかいな。」
京「おえどのお客が、是から山へのぼろといなく妙見町のつうげんに、
古市へゆくを山へのぼろといふ。」
てい「よございましょ。おともしてまゐりましょ。」
上「アノ牛車樓か千束亭にしよぢゃないかいな。」
北「たいこの間とやらは何屋にありやす。」
てい「たいこぢゃおません。鼓の間の事かいな。そりゃ千束やでおますがな。」
上「その千束やがよごりましょ。」
(卜、みなみなしたくするうち、はや日もくれて、自分はよしと、ていしゅをあんないとして三人とも出かけ行ほどに、此妙見町のうへは、すぐに古市にて、倡家軒をならべ、ひきたつるいせおんどの三味せんいさましく、うかれうかれて千束やといへるに至れば、女どもみなみなはしり走で)
「ようござんした。すぐにお二階へ。」

 この一節を読んだ牛車樓の主人の落胆と千束屋主人の満面の笑みが浮かぶ。当時の草双紙は文中に堂々と店名が突然と飛び出し、「酒は○○に限る」とか「鰻は○○に限るねえ」などは少なくないから、偶然に「千束屋」が一九に選ばれたとは考えない方がよいであろうが、ライバル店の名をも列記したうえでの御指名はおもしろくはなかったであろう。一九とは千束屋は浅からぬ縁があったようだ。

 皇学館大学千束屋資料調査委員会編『伊勢千束屋 歌舞伎資料図録』(昭和63年3月31日刊、皇学館大学発行)には、櫻井治男・岡田照子「千束屋について」のしょうがあり、牛車樓のライバルである千束屋について次のように述べられている。

 千束屋の初代は、四代目千切屋源助(古市で参宮客相手の薬店を経営していたか、という)の次男の久五郎は自分の母兄の意に背き妻(里登)と松坂へきて、千束屋久五郎と称して料理店を営んだがうまくいかず、また古市に舞いもどった。ところが、古市で藤屋市右衛門という人から人物を見込まれて、その名跡を継いだ。家屋を千束屋、名の市右衛門は継承して、初代千束屋市右衛門となった。家業の妓楼の経営は上手くいき、その盛業よりは、文化二年に伊勢参宮に古市を訪れた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に店の活況ぶりが載せられることとなった。文化三年発行の五編追加の同書には、

 当妓楼の名物は五十畳敷の鼓の間であった。室内の至るところ、また調度の品々に鼓の図柄が配され、そこでの伊勢音頭はまことに華やかであったと伝えられている。

 と指摘されている。

 こうした江戸の出版物、しかも十返舎一九という流行作家に描かれた千束屋は古市でも群を抜いた存在の如く伊勢参宮をめざす旅客に思い込ませるには非常に有効であったろう。黄表紙などでもストーリーとは無関係に突如、酒の銘柄は鰻の店名が登場することは珍しくない。営業宣伝効果をねらったのは明らかであるし、作者と店とのかかわりも察せられる。この千束屋(『東海道中膝栗毛』五編追加、(小学館古典文学全集49『東海道中膝栗毛』326項〜328項))に対抗すべく、ライバルの妓楼備前屋小三郎牛車樓から出版されたのが『牛車樓の総踊/桜迺間乃花競/伊勢名物通神風』であった。(本発表では以後は『伊勢名物通神風』として書名を扱うこととする)。

 四、『伊勢名物通神風』と牛車樓

  『伊勢名物通神風』と牛車樓について、小学館古典文学全集『東海道中膝栗毛』(326項)の頭注のなかで、中村幸彦氏は次のように述べている。

 古市の有名な妓楼備前屋。この楼名は、同家が享保年間、名古屋西小路へ出店したとき、高貴の方が、牛車で同家に来遊したことを面目として付けた。伊勢音頭の踊りも、寛延年間この家で始めたという(宇治山田市史)。文化十五年刊、式亭三馬作歌川国直画の『牛車の総踊桜迺間の花競 伊勢名物通神風』なる合巻一冊は、この家の広告文学で、末に「勢陽古市、牛車樓、備前屋小三郎板」と記す。この合巻には「ふじや」とした商人体の男も登場。ここでも二人のおどけ者を案内した、この宿屋の主人に相当する人物。

 『東海道中膝栗毛』は、牛車樓の他に「千束屋の鼓の間、柏屋の松の間」(五編下、小学館日本文学全集『東海道中膝栗毛』304項)が載り、中村幸彦氏頭注には、

共に古市の遊女屋の名で、それぞれ著名な、伊勢音頭の大踊をする、大広間を持っている。

とされており、千束屋は千束亭ともよばれ「鼓の間」については

千束屋の大広間。ここで妓女がたくさん出て伊勢音頭を踊るのが、古市妓楼の名物。以下妓楼の大広間の名が見える。踊りの図は『伊勢参宮名所図会』にも見える。

とされている。

 そもそも伊勢音頭を古市の妓楼で遊女の総踊(大踊)としてはじめたのは備前屋牛車樓であり、『宇治山田市史』によると、

地方(じかた)芸妓六人(左右各胡弓一人、三味線二人)、踊手娼妓二十人(左右各十人)で、舞台は正前より左右に折れ、廊下の形となり、欄干を廻す。正面はせり上げに作る。踊手は拍子木の相図にて各左右よる出、踊ながら正面に行違ひになり、双方反対の口より退く。この間一組の者が最初に、よいよいよいやさと囃を懸けて、躍出してからは、双方の踊手は何も歌わぬ。踊の振は単に左右に手を上下するだけの事で、盆踊ほどの変化もない。いかにも素朴なものである。せり上げの舞台は寛政六年備前屋五代の主人が、同町の彫刻師一虎なる者に工夫せしめたものと云はれて居る。

という。伊勢音頭については高野辰之『日本歌謡史』にその詳細が述べられている。

 いずれにしても、牛車樓こそ伊勢音頭の総踊発祥の店であったようである。

 『東海道中膝栗毛』での伊勢音頭の挿絵には舞台のある大広間は登場しないのは、一九自画さへ処々にある同書としては不審なところである。伊勢音頭の詞章も店々で異なり、様々なものがあったようで、先にあげた『伊勢千束屋歌舞伎資料図録』(83項)には「身揚枕」と題した「いせ古市町ちつかや久五郎」板の一枚刷の刷物が掲載されている。これは改札のように客などに配られた千束や宿泊の記念の土産ともなったものであろう。

 本発表の三馬著の合巻『伊勢名物通神風』も実は非売品であり、宿泊客や利用予定客などに配られたものであった。同著の見返しには「勢陽古市 牛車樓蔵板(牛車之印)」とともに「売ものには仕らず候」と明記されている。

 また奥付は

文化十五年戌寅三月開板
              江戸摺物所 中橋上槙町 柳斎製
右おのおのご披露のため
奉進呈候うり物には不仕候
              勢陽古市 牛車樓 備前屋小三郎蔵板

となっている。「右おのおの」というのは奥付前部に三点あがっている出版物をさしており、

新造(あらたつくり)桜迺間御披露の報條(さくらのまごひろうのちらし) 式亭三馬先生狂文
四方真顔
新樓桜迺間大踊之図 彩色摺 二枚続
柳々居辰斎先生画  惣をどりのかたちを錦絵に製したる見事なるすりもの呈上仕候御吹聴被成下幾久しく御贔屓の程奉希候
牛車樓の花競
桜迺間の花競 伊勢名物通神風 合巻絵そうし 全一冊
作者画工此冊子にしるすがごとし

 配り本としては、豪華な刷物や洒落た合巻本はかなり思いきったものであったろうが、千束屋に負けじと江戸の書林にあつらえられた粋な印刷物は、三馬の人気にもあやかって少なからぬ効果をあげたことであろう。

 注目したいのは、やはり板木をおこして製作、正本にははるばる江戸の摺物所の手を煩わせたことである。書物における出版文化圏からいうと、和歌山あたりはかなり大阪の版元がかかわっていたようであるが、『伊勢名物通神風』の作者が式亭三馬という江戸っ子であったため、仕立も江戸になったのであろうが、江戸の文化圏に伊勢路が、十返舎一九のヤジ、キタ道中以降、遠隔地にも問わず、江戸っ子たちの闊歩する江戸文化圏に取り込まれてたとするならば、『伊勢名物通神風』はより興味深い出版物といえよう。

<参考文献>

  • 尾崎久彌『江戸軟派叢書』(大正13年11月5日刊、江戸軟派研究所発行)
  • 林美一校訂『江戸広告文学』(昭和32年9月1日刊、未刊江戸文学刊行会)
  • 皇学館大学千束屋資料調査委員会編『伊勢千束屋 歌舞伎資料図録』(昭和63年3月31日刊、皇学館大学)
  • 中村幸彦校注『東海道中膝栗毛』日本古典文学全集(1989年4月1日刊、小学館)



図版1 『伊勢名物神風』本文一丁裏〜2丁裏
(牛車にちなんで、牛の上にもたれかかった遊女の着物の柄は、源氏車になっている)





図版A (序文と見返し、見返しの源氏車は別木板で押されている)




図版B 4丁裏〜5丁表(室内の調度が源氏車尽くし、総踊りの桜の間も描かれている)




図版C 奥付、5丁裏(最終丁) 
(商売繁盛、備前屋主人と三代の絵でしめくくられている)

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