●2005年12月8日 第25回MKCRセミナー

発表者:丸山 健夫氏
      
武庫川女子大学文学部教授
題目:多様性と文化-関西と関東の水利用-

日時:2005年12月8日(木)17時~18時30分
会場:武庫川女子大学学術研究交流館 会議室
 
発表要約
多様性と文化-関西と関東の水利用-
丸山 健夫

赤坂の溜池

 東京の地下鉄、首相官邸や国会議事堂のすぐ近く、「ためいけ」を名前を冠する「溜池山王駅」(ためいけさんのうえき)がある。東京メトロの銀座線と南北線の両方にまたがるこの駅は、1997年に開業した新しい駅。歴史的駅名と駅内にパブリックアートがあることから、関東の駅百選にも選ばれている。明治20年代に陸地化されたこのあたり一帯には、もともと「赤坂溜池」とよばれる溜池があった。駅名の「溜池」は、この池に由来する。「江戸のすいとうのみなかみ」と古い地図にかかれているこの池は、1606年ごろ、浅野幸長が、江戸城防備の外堀の一環と飲料用の上水確保のため作った池と伝えられる。

神田上水

 1590年8月1日、徳川家康は江戸入りをする。当時、この地域は、葦原であり荒れた地域であったと伝えられる。汐入の葦原・池と沼と水田ばかり。1590年8月3日には、 夜から大雨・千束の池あふれけが人、4日には不忍の水高く、姫が池とひとつになると、天正日記に伝えられるほどであった。海が近く、井戸には塩分が含まれ、きれいな上水を大量に確保できない。家康は、江戸入りを前に、1590年7月、上水の調査を大久保藤五郎忠行命じている。後にその功績で主水(もんど)を名乗ることになる彼は、10月に小石川上水完成させる。これが江戸の城下町としての整備とあわせて1629年ごろまでに拡張され、神田上水なったとされる。神田上水は、現在の井の頭公園にある海抜45mの井の頭池から、水戸藩邸のあった後楽園付近を通り、神田・日本橋方面へ給水する全長約22kmの上水路となった。そこで、赤坂溜池と神田上水の2つが、初期の江戸の町の根幹となる上水のライフラインとなったのである。

玉川上水

 江戸幕府が1603年に開かれ、日本の政治の中心と化した江戸の町は、急速に発展していく。ほどなく、神田上水だけでは、飲料水が足りなくなってくる。1653年4月、新しい上水を多摩川から引くという計画で、庄右衛門・清右衛門兄弟の施工により、総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治、継いで伊奈半左衛門忠克をおく体制で、新上水の建設が開始された。11月に羽村から四谷大木戸まで完成し、1654年6月には虎ノ門まで地下に石樋、さらに木樋(もくひ)による配水管を付設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水された。羽村の取水口から四谷大木戸まで約43km、高低92mの自然流下での水路を造成できる土木技術の高さは注目されるべきである。

さらに4上水

 1657年の明暦の大火のあとの復興計画により、さらに江戸の町は拡張する。これらの拡大に対応するため、1659年に本所上水が亀有上水・本所方面に給水する。そして、1660年に、青山上水が玉川上水分水により、赤坂・麻布・芝方面給水し、1664年には、三田上水が玉川上水を分水して、芝・麻布方面に給水。そして1696年に千川上水が玉川上水を分水し、本郷・下谷・浅草方面にと相次いで新上水が建設された。

 ところが、これらの後続4上水は、1722年10月1日、八代将軍吉宗のとき、幕命により、突然廃止されてしまう。その理由は不明である。しかし、政治顧問・儒官(朱子学)の室鳩巣の建議によるとの説が有力である。その防火についての建議とは、つぎのようであった。

 「明暦以後江戸市中に水道が普及してからは、地下に縦横十文字に水道管が通され、水道の水が流れているので、地脈は切断され地気が分裂してしまった。風を拘束するものがなくなり、土の潤いが水道の方にとられて大火になる可能性が生じてきているので、この際、水道はつぶしてしまいたいものである。」(「献可録」より引用の「水道の文化史」による)

 つまりは、江戸の大火事発生の原因となる地下の水の動きは、絶つべきであるとされたことによるという説である。この考えにより廃止された可能性はともかく、最小限必要な神田上水、玉川上水の2上水をのぞいて、4上水は廃止された。その後、一部は短期間の復活や農業用水利用に使用されることはあっても、江戸の6上水は2上水となった。神田上水と玉川上水というたった2つの上水で、江戸のライフラインは支えられることになったのである。そして、上水による水道が町の地下を流れ、末端の家々では、「上水井戸」にひき入れ、そこから水をくみあげ飲用にしたのである。

 廃止によって不足する地域を補うため、井戸掘りの技術が発達することになった。そして、井戸のほか、神田上水、玉川上水の余り水を、不足地域に水船などで運び、水屋などの水売りが対応したとされる。

江戸の水管理

 江戸の人々は、神田上水、玉川上水という2つの上水によって導かれた水道により、日々の飲み水を得ていた。そして、幕府は江戸の町の飲み水の運営には、幕府自身が工事と管理に直接関与した。その管理体制は大変きびしいものであった。行政側は、1666年に上水奉行が担当役職となり、町年寄が関与する体制であった。その後、広域な水管理が必要となり、上水組合が関与するようになり、1768年、奉行も普請・水道・道路を担当する普請奉行が担当する体制となっている。管理の実務部隊として、神田上水には、水番屋が5ヶ所あり、番人が居住服務した。また、玉川上水の水番屋は、江戸外の羽村、砂川村・代田村の3ヶ所、市内の四谷大木戸・赤坂溜池の2ヶ所に設けられた。侍のいる水陣屋から早馬で中央と連絡できる万全の体制での水管理システムであった。末端実務担当の水番人は、世襲または厳しい人選によった。彼らは上水を見回り、塵芥の引き上げから水質・水量の調節などの責任を負い、隔日に役所に状況報告の義務があった。また、水路の要所には、奉行名での高札が立てられ、「この上水道で魚を取り水をあび、塵芥を捨てたりしたものは厳罰に処す」とつねに監視が行われた。そして、利用者である江戸の人々からは、水道料金を徴収した。武家は、石高に応じて課金し、町方は、小間に応じて地主に課金した。

 このように、江戸では、幕府つまり支配者側により、飲み水は厳しく管理・コントロールされていた。

大坂の町

 さて、このような幕府による厳しい管理下にあった江戸の飲み水に対して、大坂の飲み水は、どうであったろうか。

 まずは、大坂の町の歴史からふりかえってみよう。大坂には、6世紀以降、難波津という国際港があった。645年の大化の改新後、難波に遷都。藤原宮、平城宮と都が移ったあとも、副都としての宮殿の整備が聖武天皇により、726年に開始されるなど、古代の歴史を飾る。その後、1496年、本願寺の蓮如上人が坊舎を立てたことにより、寺内町としての発展をはじめる。1532年の山科本願寺の焼き討ちで、本願寺の本山機能が大坂に移転したことにより、上町台地北部は、寺内町としてさらに発展する。ところが、江戸と同じく、河川や海に近く海運の便がよく、西日本の支配に適していることから、織田信長が注目した。1570年、信長は本願寺に町の明渡しを要求。10年にもおよぶ攻防のすえに、本願寺は1580年に退去する。そして、1583年、豊臣秀吉・大坂入りし、大坂城をはじめとする本格的な城下町の建設が開始されたのである。

大坂の水

 屈指の城下町となった江戸時代の大坂。さて、それでは人々の飲み水はどうしていたのであろうか? 驚くべきことに、大坂の町には、上水道はまったく建設されなかった。上町台地という地形上、まわりよりも海抜が高いので、他の地域からの自然流下による導水がむずかしかったということもあろう。しかし、なにより、淀川の水が非常にきれい豊富であったため、城下町大坂では、淀川の河川水が飲み水となった。近世風俗志によれば、大坂の井戸水は、かなけと言って水質も悪かった。大坂では井戸水は洗浄などの雑用に使用された。そして大坂の家の台所には瓶が2つ並べて置かれていたという。ひとつには蓋があり、河水を入れ飲用とした。もうひとつには蓋がなく、雑用に井戸水が入れられていた。

 江戸時代の淀川の水がとてもきれいであったことを伝える話がある。元禄15年(1702年)開業の大坂ではじめての饅頭屋とされる虎屋。人気の秘密として言い伝えられたこだわりの1つとして、「水は土佐堀川栴檀木橋の北詰の川水を早朝に汲取て用ひたり。此川水は清潔なるのみならず。自然に甘味ありと。」と、浪華百事談に伝えられている。

 飲料水は、淀川の水汲みにより確保できたのである。近世風俗志に「河水は毎朝専ら僮僕に命じ之を汲て飲食の用とす」とある。そして「又僮僕なきは雇銭を以て之を汲しむ其夫を水屋」と他人から河水を購入したという。大坂の飲み水は、基本的には淀川の水であったわけである。

大坂と江戸の比較

 大坂と江戸は、こうして比べてみると、人々の飲み水の確保の仕方が、まったく異なっている。江戸は上水のきびしい管理や水道料金など、飲み水は、支配者側に完全に管理された水であった。それに対して大坂は、河川から水が自由に供給される。上水が作られなかった理由に地形的な困難さのほかにも、既得水利権が複雑であることもあげられる。つまり、水は人々の側にあったといえる。

 この日々の生活に密着した水というライフラインが、幕府に握られているか、比較的に自由であるかという点こそ、当時の文化的な発展に影響をもたらしてはいないだろうか。ライフラインをしっかり握られ管理されている江戸は、まったく管理された社会である。これに対して、比較的自由に水のライフラインを確保できた大坂には、水利権とともに、命の水は民衆の側にあったといえよう。

 管理された水、自由な水、この違いが人々の意識と生活、そしてその文化に影響しないだろうか。

水の自由さと文化の多様性

 江戸時代を代表する大都市、江戸と大坂。どちらも海に近い立地を持ち、発展した2つの町。しかし、その人々の生活を支える「水」の環境はまったく異なっていた。大坂は江戸時代、江戸よりも多様な文化を生み出した。そして、文化に多様性を与えるのは、社会の管理から逃れた人々の自由さであり活気であるともいえよう。水という人間の生活になくてはならない要素が、お上により管理されているか、比較的自由に確保できるという大きな違いが2つの町にはあった。管理された「水社会」である江戸に対して、自由な気楽さをもつ「水社会」の大坂。この相違が2つの町の文化の多様性に与えた影響は少なくないと考える。

(文献)

稲垣史生 1980 江戸編年事典(第四版),青蛙房
喜多川守貞 1970  類聚近世風俗志(再版),魚住書店
日本随筆大成編輯部(編)1995 日本随筆大成(新装版)「浪華百事談」
堀越正雄 1981 水道の文化史,鹿島出版会
山野寿男 2000 近世三都の水事情,日本下水文化研究会
脇田修 1994 近世大坂の経済と文化,人文書院

(URL)

管内地図,東京都消防局・赤坂消防署(2005年12月12日アクセス)
 http://www.tfd.metro.tokyo.jp/hp-akasaka/map.html
郷土学習資料・玉川上水,三鷹市教育センター(2005年12月12日アクセス)
 http://www.education.ne.jp/kyoiku-center-mi/tamagawa/index.htm
東京都水道歴史館,東京都水道局(2005年12月12日アクセス)
 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/index.html
歴史散策,財団法人 大阪都市協会(2005年12月12日アクセス)
 http://www.osaka-cpa.or.jp/html/bunka/rekisi/rekisi.html




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