●2005年10月25日 第22回MKCRセミナー

発表者:阪本 博志氏
      
武庫川女子大学関西文化研究センター博士研究員
題目:1950年代の関西における大衆文化研究の展開
   -雑誌『平凡』読書との文書運動と中心者西村和義のライフヒストリー


日時:2005年11月8日(火)17時~18時30分
会場:武庫川女子大学学術研究交流館 会議室
 
発表要約

1950年代の関西における大衆文化研究の展開
-雑誌『平凡』読者との文通運動と中心者西村和義のライフヒストリー-
阪本 博志

1.はじめに

 本報告は、関西の人間文化に大きく影響を受けたひとりの人間が、そのあと半世紀たどった軌跡を通し、文化形成のモチベーションの生起過程と維持の実態との解明を目指したものである。 

 具体的には、1950年代前半に大衆娯楽雑誌『平凡』の読者と大学生との文通運動を展開した西村和義(当時京都大学経済学部生・思想の科学研究会会員)の文通運動を紹介しそれを同時代の中に位置づける。それとともに、文通運動で培われた思考の延長線上にある西村のライフヒストリーを検討する。 

 当日の報告では、当時の多数の資料を回覧したことをはじめ詳細な発表をおこなった。今回の要旨掲載において文通運動に関しては、報告要旨の紹介に留める。詳細は本年刊行予定の拙著に掲載の予定である。また、文通運動後の西村のライフヒストリーに関しても、詳細は別稿に譲りたい。 

2.思想の科学研究会の大衆文化研究と西村和義の文通運動

 エリートと大衆のあいだに大きな断絶の存在した1950年代、思想の科学研究会によって、小集団活動を重視し大衆の中に入り込む大衆文化研究がなされた。同研究会は、「大衆の実感そのものの中に入りこんで行くことに、新しい知識人のあり方を求めようとした」。また、「かれらのイメージした大衆」は「マスとしての大衆ではなく、小集団としての大衆であった」。そしてその大衆文化研究は、「大衆ひとりひとりの思想を掘り起こして行く地道な作業の一環として」[1]進められた。そのメンバーは、京都大学人文科学研究所のそれと大きく重なるものであった。 

 こうした人間文化の中で影響を受け文通運動をおこなったのが、西村である。西村は19317月韓国生まれ。敗戦により兵庫県に引き揚げている。19504月京大経済学部に入学。永井道雄(当時教育学部助教授)・鶴見俊輔(当時人文科学研究所助教授)に師事し、鶴見の影響で思想の科学研究会会員となっている。入学後西村は、当時の学生運動に違和感を覚えている。 

 当時入学しても、直ぐに色々なアルバイトをしなければ食ってゆけない大学生活を通じて、社会への矛盾や不満を大いに感じながらも、当時の学生運動には、すぐにはついてゆけない問題と批判を感じていました。
 第1に、非常に公式主義で、それがイデオロギー偏重と極端な政治活動となり、当然仲間になるべき人たちも敵に追いやり、鋭いけれども、幅の狭いもろい運動となっておりました。
 第2は、運動が都会中心でカンパニア主義で、一人一人を尊重しないで、大勢をマスとして掴んでゆくやり方で、従ってデモやストのように大勢の人さえ集めれば大成功と考えがちでした。
 第3に、極端に強い指導者意識です。これが上からの独善的な運動を生み、広い連帯をはばんでいたように思います[2]

学生運動に対する西村の違和感は、具体的には、とくに日本共産党の「極左冒険主義」に対する批判的意識である。1950年代当時の左右の対立を背景に、西村は、「平和運動」が都会の一部の学生層によって担われ、知識人と大衆・都会と地方との間に溝があることから、そうした溝を埋めるべく独自の平和運動おこなう。西村は関西一円の学生とともに、1952-3年教授を中心に学生がグループを作って地方をまわる「帰郷運動」を、企画・展開した。

 そして19532月、『平凡』誌上の文通欄「お便り交換室」に「西村一雄」名で投稿。7月号に投書が掲載され、1年間で1150通もの手紙を全国各地はおろか沖縄・ブラジルからも受け取った。このすべてに対しひとりで返事を書くことは不可能であるため、西村は京大や同志社等の学生150人を集め、返事を書く文通運動を展開した。 この文通運動を、今日から次の2点に渡り意義づけることができよう。

それは第1に、同時代における意義である。文通運動は、「「階級闘争」の季節」[3]「政治の季節」[4]とされる1950年代のとりわけ左右の激しい対立の見られた1950年代前半において、革新勢力がその政治運動・労働運動・学生運動に取り込むことができずまた、そうした運動の主体的存在ではなかった(学歴エリート・学歴ノンエリートにかかわらない)数多くの若者たちに着眼した[5]ものだったと言える。

2に、その後の西村自身のライフヒストリーにおける意義である。これらの運動を通し西村は、「コミュニケーション」を重視する次のような思考を培っている。それは、一対一の結びつき及び(一対一の連鎖反応である)小集団を重視し、小集団の中で互いに異なる考えを認め合うところに理解と信頼が生まれるという思考である[6]

このように西村は、大衆の中に入り込み小集団を重視する、当時京都を中心に展開された大衆文化研究という思想運動に影響を受けた。そして、そこで文通運動を発想し、それを実践するなかで上記の思想を培ったわけである。

3.その後の西村のライフヒストリー

19543月西村は京大を卒業し、4月三菱金属(現・三菱マテリアル)に入社した。当時鶴見は、久野収との共著『現代日本の思想』(岩波書店、1956年)において、次のように述べている。

 西村一雄はその後、大学の研究室に残ることもなく、評論家になることもなく、地方の会社員としてつとめているが、対話の形でなり、手紙の形でなり、つねに自分のおかれた場所に応じた思想活動をつづけてゆくであろう。研究室とか綜合雑誌の外に、正当な思想活動の場所があることに彼は確信をもっている[7]

入社後、たとえば、西村は19774月鉱業界共同の大規模鉱山開発の責任者としてマレーシアに赴任し、80年まで参画しているが、帰国後彼は主に東南アジアからの留学生を家庭に呼ぶ運動を展開している。そして現在西村はライフワークとして日本・中国・韓国との民間・文化・企業間の交流活動をいろいろな組織を通じて継続的におこなっている。

西村が『思想の科学』19545月号で「乙女たちは考える ——『平凡』読者との文通——」と題し文通運動の報告をおこなったあと、それに対する上坂冬子からの批判と西村の応答が、同年8月号に掲載されている。そのタイトルは「文通でやれること」であるが、大学卒業後の西村の歩みは、まさに「企業人としてやれること」を文通運動で培った思考形式のもと展開していったものだといえる。

4.おわりに

文通運動・大学卒業後の西村の軌跡は、学者や評論家もしくは市民運動家としてのものではなかった。西村の思考の展開は、学生運動を卒業したあと資本主義社会に順応していくタイプとはもちろん異なり、1950年代若き日に思想運動の中で培ったものを、財閥系の企業に就職したのちも貫くものであった。ここに、1950年代の関西で展開された大衆文化研究・思想運動のなかで培われたモチベーションが、個人の内面において独自の思考形式のかたちをとって維持・発展した姿を見ることができる。

付記

 本研究遂行においてたびたびインタビューに応じていただいている西村和義氏に心から御礼を申し上げたい。また、加藤秀俊氏をはじめ関係者の方々にも当時のお話をうかがった。記して感謝したい。なお、氏の文通運動を紹介したものとして、拙稿「ニュー・エイジ登場」第3回(『週刊読書人』2003214日号2面)を、雑誌『平凡』の沿革については拙稿「『平凡』の42年」(『出版研究』33号所収)を参照されたい。


[1] 前田愛「読者論小史」『近代読者の成立』岩波書店2001年(初出1973年)347348頁。

[2] 西村和義「思想の科学と出会い40年 人間への信頼と一歩前進」『思想の科学』19928月号、54頁。

[3] 升味準之輔『日本政治史4 占領改革、自民党支配』東京大学出版会、1988年、8頁。

[4] 柴垣和夫『昭和の歴史9 講和から高度成長へ』小学館、1994年、16頁。

[5] 西村は、思想の科学研究会の共同研究「伝記グループ」において、文通で知り合った紡績工場の女子工員の伝記を書くように勧められた(2003515日におこなったインタビュー)。このグループの成果は思想の科学研究会編『民衆の座』(河出書房、1955年)として刊行された。同書の巻末に記載されているグループの名簿から、多田道太郎本学生活美学研究所初代所長がこのグループに参加していたことがわかる(同書、220頁)

[6] 1952年に行った帰郷運動について西村はのちに次のような反省を記している。「権威を否定し、真に同じ立場で語り合ってくるのだと常に考えていながら、まだまだ大学とか教授とかいう、権威に多くすがり、上から演説をブツとか、教えるのだといった態度が棄てきれなかった自分たちに気づきました」(西村一雄「『ふるさとに帰る』とは何か——ある体験者の立場から——」『思想の科学』19609月号、17頁)。また、文通運動においては大学生とその文通相手が一対多の関係になるので、大学生の側が文通の相手を選択することが可能になる。そのためその文通相手が、返事を書かれる相手に選ばれようと他の人間より目立とうとし、大学生の側が有利な位置になってしまう「傾斜的」になりがちな側面があることを西村は認めている(2003320日ならびに911日におこなったインタビュー)。西村は、エリートと大衆のあいだに大きな断絶のあった当時、「同じ地平に立ってのコミュニケーション」を目指していたものの、そこにはおのずと限界が生じ、厳密に「同じ地平に立ってのコミュニケーション」が成立したわけではない。

[7] 同書、203頁。

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