●2005年10月13日 第21回MKCRセミナー

発表者:廣瀬 唯二氏
      
武庫川女子大学文学部教授
     寺島 修一氏
      武庫川女子大学文学部助教授
題目:都と地方の往還

日時:2005年10月13日(木)17時~18時30分
会場:武庫川女子大学学術研究交流館 会議室
 
発表要約
都と地方の往還
廣瀬 唯二
寺島 修一

紫式部の武生往還

廣瀬唯二

 「紫式部集」に遺されている、越前武生に下る折の歌群と、越前在住時の歌群と、帰京の折の歌群に注目し、都人としての紫式部の感覚を考察した。

 武生下向の歌群は、20番歌から24番歌(1)までの五首が該当するが、21番歌及び24番歌は上京時の詠とする理解もあり、一定しない。例えば21番歌では、素材として詠み込まれた「たづ」が、下向時の夏には適さず、帰京時の冬の素材としてこそふさわしいとか、詞書の「磯の浜」は、琵琶湖北の地名にあり、往路の二首めに置かれるのは地理的に船の進行にそぐわないとする。また、24番歌の「老つ島」や「童べの浦」が、現在の奥津島神社や乙女浜にあたるとすると、これらは琵琶湖東南岸にあり、西岸を通った往路詠ではなかろうとするものである。

 逆に、21番歌詞書の「磯の浜に」は、他の四首の地名の下に共通して使われている「といふ」の語がないゆえ、地名ではなく普通名詞であろうという理解や、24番歌の「老つ島」や「童べの浦」(奥津島・乙女浜のことか)は、往路に琵琶湖西岸から遠景として眺められたものとしてこそふさわしいという反対意見も提出されており、往還どちらの詠かは定見をみない。

 しかしながらこれらの議論は、この歌集の歌の配列が時間軸、空間軸を基準としているという前提に依存しすぎた解釈に拠っているのではないだろうか。別の視点、すなわち、作者の心情という点からとらえなおすと、往路と帰路の詠歌は、相反する心情を表出していることが明らかに見てとれる。

 往路20番歌「立ち居につけて都恋しも」や21番歌「なに思ひ出づる人やたれぞも」の望郷の念や、22番歌「かきくもり……浮きたる舟ぞしづ心なき」、23番歌「よにふる道はからきものぞと」の不安感、苦悩は、この歌群の直前の15番歌から19番歌に見られた親しい女友達との別離の悲しさをそのままひきずり、都を後にして鄙の地へ移りゆくつらさや悲しさが表出されている。21番歌を帰路の歌とし「矢のごとき帰心にはずむ心 (2)」を読む理解には到底従えまい。

 続く在越前時の詠歌三首(内一首は紫式部の女房らしき人の返歌ゆえ、式部詠は二首)も、目近に見える日野岳に深く降り積もった雪を見て、都の小塩の松に降っていた雪を想起する歌に始まり、27番歌詞書に「降り積みて、いとむつかしき雪」と、高く積もった雪への嫌悪感をあらわに描き、「ふるさとにかへるの山のそれならば心やゆくとゆきも見てまし」と、鹿蒜の地名を詠み込むという技巧は見られるものの、「心ゆく」ことがない、気の晴らしようもない越前の雪へのうっとうしさを表出する。周囲の者からの雪遊びへの誘いを強く拒否する姿勢をくずさない。周囲の者はそれなりに鄙の環境に同化し始めているのに、紫式部は鄙に馴化することなくかたくなにそれを拒否し続けている。紫式部を取りまく環境や景物は、都恋しさを募らせる契機としか認識されていない。紫式部にとっては、決して相容れない対象として鄙の地越前が認識されていたと言えよう。

 これらに対して、帰路の詠三首は明らかにその様相を異にしている。71番歌詞書「都の方へとて、かへる山」が「都の方へ帰る」と「鹿蒜山」の掛詞となり、詞書「猿(さる)」は歌中「まし」(猿と汝の意の掛詞)として表われ、詞書「山越えけるに」は歌中「かはせ」として、詞書「輿(こし)」は歌中「越し」として反復使用される。「呼坂(よびさか)」という地名によって興味が喚起されての詠であろうが、詞書の「恐ろしと思ふ」心象が全く反映されない、帰京にはずむ心が感取されるような歌になっている。72番歌も同様で、詞書「伊吹の山の」が歌中「ゆきなれて(行き慣れて)」で反復され、詞書「白く」は歌中「白山(しらやま)」に、初句「名に」は五句「何とこそ見ね」にくり返されている。また初句「高き」は四句「伊吹の嶽(たけ)」に類音で表われ、歌中「山」「嶽」「見ね(嶺)」は縁語となっている。73番歌では、詞書「卒塔婆」が五句「そとは見えねど」に物名として詠まれ、詞書「まろび倒れ」が同義の「苔(転〔こ〕け)」を導いている。

 これらの軽妙な言語遊戯的詠法や、旅の難渋ささえ楽しく明るく描いてゆく描写の基底には、帰京するという喜びが大前提としてある。都に帰るという歓喜が前提としてあるゆえにこそ、都人が寒さや雪のイメージに結びつける伊吹山も、何ほどのこともないと言い切れるのであろう。

 離京・在越前・帰京の詠歌に、かような作者の心情の相違が反映しているとすると、往路歌群の末尾に置かれた24番歌も、帰路歌群の一首とすべきではないか。「老つ島」「童べの浦」という対比的な地名によって喚起された興味が基底にあることや、詞書「をかしきを、口ずさみに」という軽妙さを内包する表現があることから、帰路の歌群に置かれるべき詠歌と考えられるのではないだろうか。それが往路歌末尾に据えられたのは、前歌の「津山」「からき」の連想と軌を一にしているゆえかもしれない。

 結局、三つの歌群で詠まれた紫式部の感性・心情の差違は、作者紫式部の都鄙感覚を如実に物語ってくれていると考えられる。各々が歌群としてまとめられることによって、鄙に同化することなく、都に執着し続ける紫式部のかたくななまでの「雅び意識」「反鄙意識」が見えてくるように思えるのである。

(1)紫式部集の引用及び歌番号は、新潮社古典集成本による。
(2)木船重昭氏「紫式部集の解釈と論考」(笠間書院 昭和56年11月刊)


顕昭歌学書における都と地方【要旨】

寺島修一

 

顕昭の「土民」説  

 顕昭歌学書には釈義の中で「土民」とか「案内者」などの形で、都では知りえない地方の風物などについての情報に触れることがある。本発表では顕昭の歌学書がそうした地方の情報をどのように扱っているかについて瞥見する。特に「土民」は院政期歌学書の中でも顕昭歌学書にその用例が目立つ。顕昭のいう「土民」は、土地の者、というくらいの意味である。ここでも顕昭に倣って「土民」と称するが、いささかも差別的な意図のないことを断っておく。

 顕昭の用いる「土民」説には、直接には『奥義抄』の引用であったりする場合もあるが、一方で「極不審故に美作の湯に罷下之時、彼土民に尋侍しかど、さる池ありと申もの侍らざりき」(『袖中抄』「かつまたの池」)と、顕昭が直接に土地の説を収集しようとしていると見られる場合がある。また、「土民」の語は用いないが、「さ樣の案内知たるものにあまた尋問侍しかば」(『袖中抄』「たづら」)といった例も同様に考えることができる。さらに「故源中納言師仲語曰、下向坂東之時、野をすぎしに草の葉のゆるぎしを見て、ゐ中人のもずの草つきといひし事有て、若このもずのくさぐきを草つきといひ成歟」(『袖中抄』「もずの草ぐき」)のような例もある。こうした人からの伝聞を書き留めることは顕昭歌学書に散見される。このような形で人づてにもたらされた情報と顕昭が直接聞き出した「土民」の説とは口承によるという点で近い性質を持っており、文献によって確認される知識とは異なる位相にある。このように文献によらない形で得られた都では知り得ない情報をここでは「土民」説と称することにする。

「土民」説の扱い  

次にどのような態度で顕昭が「土民」説に接しているかを見たい。『袖中抄』「さやの中山」では「さやの中山」について「土民」説として「さよの中山」「さやの長山」を挙げる。ここでは「土民」説が退けられているのだが、「さよの中山」については、証本、郡名など文献的徴証を根拠に「土民等が説は、和歌には叶はずとみゆる事多し」と断ずる。また、「さやの長山」も、和歌の同音繰り返しのレトリック、「長山」という語に対する不審、俊恵その他の歌人の読みの不同を理由に「土民」説を退ける。ここでの顕昭は文献的徴証と論理的一貫性(和歌のレトリックや単語の不審)を上位に挙げ、「土民」説をことさらに重視する様子はない。顕昭の「土民」説の扱いは、それを絶対視するというものではなく、説の根拠の一つとして他の根拠と並んで勘案される一要素であったとおぼしい。

 同様の態度を『六百番陳状』「かひや」にも見て取ることができる。顕昭は『六百番歌合』での自詠で「かひや」を蚕飼する屋として詠んでいるが、『六百番陳状』では「かひや」を「ふしづけ」であると主張する。その根拠はまたしても「土民」説であるが、しかし、それは同時に公実の『堀河百首』歌が「ふしつけしかひやが下」と詠んでいることと相俟って主張されている。「土民」説を無条件に支持しているわけではなく、「土民」説と公実詠が一致していることが重要なのである。「土民」説に対して是々非々で臨む顕昭の態度は、基本的にその時々に「土民」説の妥当性を検討しようとする姿勢の反映と見てよかろう。

 ただし、確かに『六百番陳状』での顕昭の「土民」説へのこだわりは『袖中抄』に見られるのとはその執着の度合いが違うとも思われる。「かひや=ふしづけ」説のみならず「かひや=蚕飼する屋」説を「土民」説で補強し、さらに右方寂蓮側の「かひや=鹿火屋」を「土民」説によって排除しようとする。そのようなこだわりはこれが御子左家と六条家との歌道家の説の対立を背景とするからだろう。このように複数の異なる「土民」説がそれぞれに自説の正しさを主張するような状況になると、そうした「土民」説が事実を伝えているか、その場では判断できないから、論議の決着は付きにくい。いかに顕昭が寂蓮の「土民」説を論破するために新たな「土民」説を探し出しても、陳状が読まれる場では眼前の事実として機能しえない。その点で「土民」説は「かひや」の収まるべき本文(ここでは『万葉集』)に対する解釈としての今案となるほかない。

歌学書の形成と「土民」説  

『六百番陳状』「あまのまくかた」を例として、「土民」説が歌学の形成にどのように与るのかを考える。『袖中抄』では顕昭が『奥義抄』の「まくかた」説を採らず、「まてかた」を採る。「まてかた」の本文を有する和泉式部歌を『龜鏡集』で「甲虫類」に入れた伊勢の室山入道の判断を「彼入道伊勢海の邊にて能知案内歟」と尊重する。ところが、『六百番歌合』の自詠で「まくかた」説に転ずる。

 『六百番陳状』で顕昭は、清輔が「鹽やく案内者等に相尋て」正義を知ったのだといい、それを「更非門徒之今案」という。これは『六百番歌合』俊成判詞の「かれが門徒(清輔の門弟)のまくと執して勘持て侍けるにこそ」に対する反論である。ここでは「案内者」の説が「今案」に対置されて、本文本説というに等しい扱いを受けている。

 顕昭は「まくかた」説の擁護だけでなく、「まてかた」説の非難にも「土民」説を用いる。御子左家説に「土民」説を持って対抗する点は「かひや」の場合と同じ。以上の「あまのまくかた」の場合も「かひや」と同様に、繰り返し「土民」説が現れる。

 このように見ると、『袖中抄』などの場合とは異なり、『六百番陳状』では「土民」説への傾斜が強く見られる。「あまのまて(く)かた」では『袖中抄』の自説を撤回し『奥義抄』説を採っていたが、「かひや」で顕昭が主張した「ふしづけ」説も本来は『奥義抄』の説で、『袖中抄』では『六百番歌合』の自詠と同じく「かひや=蚕飼する屋」説を採っていた。「あまのまくかた」は『六百番歌合』の詠歌ですでに「まくかた」の本文を採っているから、その時点までに顕昭は自説を変更したのであろうが、「かひや」で『奥義抄』説を採ったのは歌合の披講評定の後、陳状執筆時と認められる。御子左家説に対抗する『六百番陳状』の立場では、顕昭は六条家説を強固な一つの説として主張する必要があり、そのために本来の自説を捨てて『奥義抄』説を六条家の説として打ち出したのである。その際に『奥義抄』説のよりどころとして「土民」説が採用されたのであった。

 顕昭は『六百番陳状』において「道理」と「現証」によって歌学の所説の正しさは保証されるという。「土民」説は文献的徴証と並んで「現証」をなす。顕昭は「道理」についても言葉を尽くして説明しているから、「土民」説が顕昭の主張の唯一のよりどころというわけではない。しかし、「現証」としての「土民」説は文献的な徴証に比べて十分な説得力を持っているとはいいにくい。「あまのまくかた」では、俊成の非難に対して六条家説を根拠づけようとして、「土民」説を今案を退ける本文として機能させようとするが、一方で「かひや」の『六百番歌合』の評定の場で「土民もこれを飼屋と云也と申き」というのは今案でしかなく、「土民」説は都合よく使われているといわざるをえない。

 ただし、『六百番歌合』および陳状での「土民」説の乱用はある程度仕方のないことでもあった。『六百番歌合』において論難は予備知識なしに当座で行わねばならなかった。そのことが論難での「土民」説の出現に関わっていると考えられ、歌合での評定をふまえた陳状が「土民」説に多くふれることもそのような事情を勘案する必要がある。しかし、それでも俊成が後日判で「土民」説を厳しく非難しているのに比べれば、顕昭が「土民」説をも自説の根拠として取り入れようとしている点は目立っている。このことは自説の優位を主張するためにはあらゆるものを動員しようとする顕昭の姿勢を反映しているだろう。

 顕昭の歌学は文献学的態度がその特徴とされるが、口づてに知りえた他人の所説をよく記載する点も他の歌学者のレベルを超えている。「土民」説の摂取についてもきわめて積極的であったと評価できる。

 文献的に解明できない歌語について「土民」などの説を採集しているのは広く真実を求めようとする歌学的な態度の表れである。その点で歌学における都と地方は隔絶していない。しかし、複数の「土民」説が並立して決着のつかない状況は都の歌学の場において地方の風土的な事実が本当には届いていない状況を表している。それは都と地方の遠さを表してもいる。



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