●2005年9月27日 第16回MKCRセミナー

発表者:ユディット・アロカイ氏
      
ベルリン自由大学東アジア研究所専任講師
       サブプロジェクトc7リーダー
題目:王朝女流文学の前提条件としての歌合とサロン文化

日時:2005年9月27日(火)17時~18時30分
会場:武庫川女子大学学術研究交流館 会議室
 
発表要約
王朝女流文学の前提条件としての歌合とサロン文化
ユディット・アロカイ

 10世紀以降平安朝で発達した女流文学の背景には、その政治的・社会的前提条件はもとより、宮廷での文学生活を高く評価する組織があったということがある。最初に発展したのは「歌合」という文学形式であり、後の11~12世紀には、いわゆる「サロン文化」が文学における主要な役割を果たすようになる。宮廷サロンというのは、ヨーロッパにおける文学サロンと同様、女流文学の発展を後押しする存在であって、宮廷サロンの性質の変容・消滅という事態が文学生活の変容とも密接に結びついている。著しい変化が日本で起こったのは13世紀、つまり中世への移行期であったが、ここで犠牲になったのは平安時代全盛にあった女流文学であった。

 以上の観点からは、それまで女流文学を支えてきた形式・組織、及びそれらの変容のプロセスについての詳細な研究が重要な課題となろう。女流文学が文学生活の表舞台から押しのけられていった過程についての正確な知識を得ることによって、中世からの何世紀もの間、女性がなぜ文学生活において副次的な存在でしかありえなかったということも説明できるのではないかと思う。

 歌合は、和歌の歴史のみではなく、女流文学、特に女性の詩的創作活動にもかなりの影響力を及ぼした。歌合が宮廷女房の世界とのつながりの中で発生したこともあって、歌合における女性参加者・女性主催者の割合は比較的高いものであった。また、特に初期の歌合、また11世紀に行われた「女房歌合」は娯楽的要素が強いのが特徴である。その一方、歌合は男女間の教養・才能の競い合いの場として発展したという事実もある。そしてこれに続く時代に発生したサロンは、文学的才能に恵まれた女性には好都合な環境を備えるものであった。

 後宮における祭事・催事の確立は、天皇が政治的・公式的な生活から身を引いたことと関係している。天皇の生活は、ますます天皇及び后また女房の居住空間でもあり宮廷文化の主要舞台ともなるべき内裏及び後宮に集中するようになった。この時代には、後宮内の居室では気晴らしや遊びの要素を含んだ力比べなどを目的として、複数人で競い合う遊戯が発達した。相撲・騎馬・蹴鞠や弓といった、男性参加の伝統的な宮遊戯が屋外で行われる一方で、女性が参加する遊びは基本的に屋内で行われるものであった。例えば、中国から輸入された碁・双六・物合、そして寧ろ女性が好んでおこなった矢投げ・石投げの遊びや貝合などがこういうあそびである。

1. 歌合

 歌合の形成過程において、女性は中心的役割を果たし、女性が歌合に参加すること自体が決定的要素となっていた。女性参加者に様々な役目が割り当てられていた。公式に行われた歌合において女性が占めた特別なポジションは、「寛平御時后宮歌合」の開催された893年(寛平5)から10世紀後半にかけて、様々な資料から明らかになっている。

 はじめ、女性は歌合において際立った地位を獲得していた。この事実の裏付けとして、文学史的に更に重要な幾つかの事柄が確認されている。公的な場で歌合に参加する女性は、催事記録をつけ、渡された歌を詠み上げ、そして判詞(歌の批評)にも参加していたが、次第にこういった重要な役割から遠ざけられていった。

 913年(延喜13)に行われた「亭子院歌合」においては、女流歌人の伊勢が「歌合日記」(歌合の記録)をつける役目を任されていた。伊勢は当代きっての有力な女流歌人であったというだけではなく、この歌合の主催者である宇多天皇(亭子院)の特に親しい愛人であった。伊勢はこのとき左方第一の席に座っていたが、この席は天皇自身がしばしば座す一番重要な位置であった。また彼女はこの歌合で自作の歌を披露した唯一の女性であり、初めて歌合の記録である仮名日記を記した人物でもあった。彼女のつけたこの記録は、後にこのジャンルの手本にもなった。

 初期においては、歌合日記における役割は性別ごとにふりわけられていたようである。幾つかの歌合については「漢文御記」そして「仮名日記」と呼ばれる二つの歌合日記が残っているが、「漢文御記」の方は、天皇自ら又は殿上人といった男性によって記録された。しかし既に述べたように、初の「仮名日記」は女流歌人伊勢によるもので、その後も仮名日記の記録は常に女性に任された。残念ながら歌合日記の執筆者の名前はしばしば記されていないか消失しており、これを正確にリストアップすることは不可能である。また、判詞結果も漢文及び仮名文の両方で記されることが多かったようだが、この記録者の情報は歌合日記の執筆者よりも更に不完全なものとなっている。不完全ではあっても、この資料から男性の仮名遣いについての情報が読み取れる。すなわち、こうした公的な場面では、男性も早くから歌学批評のためには仮名文を用い始めているということである。和歌を詠むために仮名を使用する傍らで、まさに和歌と関係の深い歌合判詞という分野で仮名を使う傾向は、男性のあいだにも早くから広まっていたと推量される。そして、男性が仮名日記も書くようになり、女性にみられたその役割が失われてしまうのである。これでまた男性の文学の中の領域が広がり、女性の領域が狭まってくるということが生じたのである。

 この他にも、歌合において当初女性がしばしば引き受けていた「講師」という役目があった。講師は出詠された歌を実際に詠み上げる朗詠者の役を担っている。大抵は左右グループごとに講師が選出されたが、講師一人が左右全ての歌を詠み上げるケースも稀にはあった。「亭子院歌合」においては、ほんの少し上に持ち上げられた簾の後ろに座った女性が歌を詠み上げるという形がとられている。しかしながら、こういった任務はまもなく女性の手から離れていった。これは「女性から男性への任務移行」というステップ、すなわち歌合の形式化・儀式化と強く結びついていると私は考えている。歌合における娯楽的要素がどんどん薄れてゆく一方で、歌合への参加および役割の割り当てにおける政治的意味合いは強まっていった。ただしこうした変化の犠牲となったのは女性だけではなかった。下級官吏(受領)なども天皇の主催する宮廷催事への参加を許されなくなっていったのである。960年(天徳4)に行われた「天徳内裏歌合」のメンバーをみても、この傾向は容易に読み取れる。そこでは、判詞を行ったのは主に政治において発言力のあった藤原実頼で、参加者は地位の高い者ばかりであった。

 平安時代に行われた、女性が何らかの形で関わった歌合の頻度推移を示すグラフを見ると、女性の参加した歌合も三つの大きな時代に分けることができる。主に女性が参加した、あるいは女性のために開かれた、女性が主催した、女性が企画した歌合をここで「女性歌合」と名付けることにする。こう言った女性歌合の数を50年おきに見てみると、次のようになる。すなわち、初期850年から900年にかけて、全部で歌合は十回開催されたが、その内の4回は女性の名前が現れる歌合であった。901年から950年の間には約7つの「女性歌合」が開催されたことが分かっている。さらに951年から1000年の間にかけてこの数はぐっと上昇し、22の「女性歌合」が確認されています。その後1001年から1050年にかけては13と一時後退するが、1051年から1100年にはその数は最高値に達し、40もの「女性歌合」が催されている。

 しかしこの一連の流れは突然の断絶を迎えることになる。1100年以降、1150年までに行われたこの種の歌合はたったの二つであり、1151年から1200年の間にも更に二つの「女性歌合」が催されているのに過ぎない。中世においては二つの女性歌合しか行われていないのである。平安時代と鎌倉時代全期を見ると、887年(仁和3)から14世紀半ばにかけて、女性によって催された歌合は92あったが、この数は、平安時代に開催された歌合の四分の一の割合を占めるものである。要するに、平安時代歌合においては女性主催の割合が多かった。そして歌合の成立から1200年に至る期間にはいろいろな変化がみられたのである。その変化は、歌合の娯楽的な性質が薄まり、歌合判詞が客観的・理論的になり、流派の影響が強くなったということである。そして、女性が主催する歌合も次第に消えてしまったのである。

2. 宮廷サロン

 女流文学の全盛期、女官が文学活動を行う場所はいわゆる「サロン」に集中している。サロンという外来語は国文学文献において1960年代から使われており、平安朝貴婦人の文芸活動(和歌、物語の創作、歌合主催、作品を一緒に読んだり、写したりすることを含む)を意味している。日本の宮廷サロン文化の全盛期とは、紀元1000年頃の、定子・彰子という一条天皇に仕えた2人の中宮に代表される時代と、11世紀半ばに、グループとしての女性歌人が中心となった時代とに区別できる。サロン文化の全盛期は、複数の女性による集合的文学活動に焦点があてられている。『万葉集』、『古今和歌集』、そして『新古今和歌集』以来の女流歌人の文学活動を見ると、それは個人のものとしてのあり方が前面に押し出されたということで、サロン文化とは性質が違っている。

 サロンとは、天皇の后(中宮・女御など)を中心に形成されるものであるが、これらのグループは彼女等によって主催され、またその親類縁者のサポートを受けて維持されていた。そして女官がどのサロンに属するかは、各サロンのパトロンとの主従関係により決定されたのである。ここに、同時期に発生し、後世に「歌壇」と称されるグループとの決定的な違いがある。歌壇に属したのは多くは男性歌人であり、それは参加者の親戚関係や文学流派などを基準として編成されたグループであった。「サロン」の場合、その名称はパトロンである皇族の女性にちなんだもので、彼女の個性・人格はしばしばサロン全体の特徴を決定するものであった。そしてサロンの構成者となっていたのは、主に和歌の才に優れた女房であった。皇宮、中宮以外にも、重要なサロンを主催した女性もあったが、彼女等は退位した天皇の后や賀茂斎院(例えば選子や禖子内親王)、または皇女(例えば郁芳門院)であった。10世紀から12世紀半ばにかけて営まれたサロンの総数はかなりのものであったに違いない。

 サロンで行われる文学活動として、歌合、歌会、日記の編纂、また「物語」を書き写す作業などが行われた。宮廷文学において歌合は非常に重要なものであって、皇族の女性をはじめ宮廷に仕える女房、女官の興味を大いに惹きつけていた。また、歌合では和歌の優劣を競ったため、歌学書にも女性が歌合に参加していた事や、詠んだ歌について言及する部分は多く見受けられる。特に11世紀前半には、非常に精力的な活動を繰り広げているサロンが幾つかあり、歌合また女房歌合が数多く催されていた。また、皇女(内親王)や関白の娘・姪を中心として集まるサロンは「物語」創作・受容の重要な場ともなっていた。こうした女主人及び他のパトロンの助力なしには、女房作家は作品を紙にしたためることも、また複写することもできなかったことであろう。

 12世紀に入ってからは、今まで女流文学の発展を促進してきた政治的・社会的構造が次第に崩壊し始めた。和歌を詠む行為が職業となってから、和歌の世界から排除されるようになった存在とは、まさに女性である。12世紀に起こった和歌の細分化・職業化とは、和歌に従事した女房の広い層が崩れ、代わりに式子内親王、俊成女など、個人としての女流歌人が存在するようになることを意味している。そしてこれら個人としての女流歌人は「男性」が確立した流派に重点を置き活動することを余儀なくされた。

 この傾向は、いわゆる「詠歌活動の中世化」(medievalization of poetic practice)というプロセスを経て、和歌の伝統が様々な流派に分裂していった時代には特に明確なものとなっている。和歌が宮廷儀式から中世芸術へと本質的に変容した原因は次の二点が考えられる。すなわち、第一に階級システムの範疇で広範囲のコンセンサスを得ていた社会を反映する表現方法としての和歌が、分裂した中世の社会において議論を呼ぶ芸術へと発展したこと。そして第二には、そこで和歌の私有化と専有化への推移が同時に行われたことである。これは、歌作活動およびその受容、両方に影響を与えた。

 女流歌人は男性によって形成された歌壇に属さねばならず、さもなければ作品は天皇の勅撰集に収録されることも、歌論書で引用されることもなく、女流歌人の名前は消失することとなる。これは芸術としての和歌が、中世以来、和歌流派の争いに決定的な影響を受けてきたためなのである。

参考文献

秋山虔・山中裕編纂『日本文学の歴史』(全12)巻第3巻『宮廷サロンと才女』角川書店 1967
秋山虔 「一条朝の文芸サロン―中宮定子・中宮彰子・大斎院選子をめぐつて―」『国文学』1967.06
萩谷朴・谷山茂『歌合集』岩波日本古典文学大系74(前書きは萩谷朴による)・岩波書店1965
Heyden-Rynsch, Verena von der 『ヨーロッパのサロン-消滅した女性文化の頂点』法政大学出版1998
Huey, Robert N.: „The Medievalization of Poetic Practice“, in: Harvard Journal of Asiatic Studies 50/2 (1990)
Ito, Setsuko: A Study of the Development of Poetry Competitions (uta-awase), University of London unpublished PhD. Dissertation, London 1981
峰岸義秋『歌合の研究』 三省堂 1954
三田村雅子「女性たちのサロン-大斎院サロンを中心に」『国文学』 1989.8 (34,10)
長沢美津『女人和歌体系(全六巻)』第四巻(第3版)風間書房 1962
鈴木知太郎「後宮とサロンとの関係・対立〔古典文学論争事典〕」『国文学解釈と鑑賞』1962.06
徳原茂実「歌合の成立と展開」上野理、有吉保編『和歌文学講座 第五 王朝の和歌』勉誠社 1993





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