●2005年7月19日 第19回MKCRセミナー
発表者:姜 鍾植
      
同志社大学言語文化教育研究センタ―
題目:古事記と朝鮮資料における「大后」
日時:2005年7月19日(火)17時~18時30分
会場:武庫川女子大学学術研究校流館 2階会議室(IR-201)
姜先生写真 
発表要約
古事記と朝鮮資料における「大后」
姜 鍾植


 古代において君主の配偶者を如何に称したのかは、君主の称号とともに世界観と関わる重大な問題である。『古事記』の場合、以下の例で示すように、君主の称号は、訓みは別として表記としては「天皇」で統一されている。しかし、君主の配偶者の称号には「皇后」の他に「大后」も用いられており、「天皇」号に対して「皇后」号と「大后」号とが混用されている。

(1)帯中日子天皇、坐二穴門之豊浦宮及筑紫訶志比宮一、治二天下一也。…又娶二 息長帯比賣命一、是大后。…(中略)…凡帯中津日子天皇之御年、伍拾貳歳。御陵在河内惠賀之長江也。【皇后御年一百歳崩。葬二于狭城楯列陵一也】。(仲哀記)

(2)御子、穴穗御子、坐二石上之穴穗宮一、治二天下一也。天皇為二伊呂弟大長谷 王子一而、坂本臣等之祖根臣、遣二大日下王之許一、令レ詔者、汝命之妹若日下王、欲レ婚二大長谷王子一、故、可レ頁。…(中略)…故、天皇大怒、殺二大日下王一而、取二持来其王之嫡妻長田大郎女一、為二皇后一。自レ此以後、天皇坐二神牀一而晝寝。尓、語二其后一曰、汝有レ所レ思乎。答曰、被二天皇之敦澤一、何有レ所レ思。於レ是、其大后先子、目弱王、是年七歳。(安康記、目弱王) 

 さて、「大后」については、従来、上代の文献全般を視野に入れて成立論的な立場から論じたものと、古事記という一作品に限定して古事記論的な立場から論じたものの二通りがある。

 まず前者の立場としては、「大后」号の条件として、(ア)皇族出自であること、(イ)天皇の母であること、の二点があげられ(岸俊男「光明立后の史的意義―古代における皇后の地位―」・成清弘和「大后についての史料的再検討」)、また、大后の役割が、(ウ)大王の霊を次代の大王に付与するところにある(吉田晶「古代国家の形成」)とされる。

 いっぽう後者の立場としては、(エ)物語伝承の上で有力な后妃が大后の称を得ている(曽倉岑「古事記の大后」・山崎かおり「古事記の大后」)、(オ)大后の称のある女性は、第一に物語に登場する后である。第二に…出自が皇女または皇族である。第三に…天皇の生母である(川副武胤「古事記の女性称号考」)とされる。

 さらに日本思想大系『古事記』は、
律令制にもとづく皇后の呼称の成立以前の呼称で、天皇を大王と称したことに対応する。紀では雄略二十年条引用の百済記に百済国王の正夫人の呼称として大后の語がはじめて記されている。日本の大后の称も大王の称とともに朝鮮よりとり  入れられたものらしい。
 と指摘する。「大王」「大后」という称号が古代朝鮮から移入されたのかどうかはともかく、「大后」が「皇后」以前の称号であるという指摘は注目される。

 本稿は、以上の古事記の研究成果を踏まえつつ、朝鮮資料における君主の配偶者の呼称、ことに「大后」の有り様について検討するものである。


 

 周知の如く、古代の朝鮮諸国は対中関係において自らを宗主国の中国に対して臣国だという立場を取り(冊封制)、中華思想的な世界観に編入されていく。したがって自国の君主は基本的に「~王」であって「~皇」という称号を使用することができなかった。そのことは君主の配偶者の称号にも適用される。朝鮮諸国におかれたこのような対外情勢を確認した上で、「太后」の例を検討する。(3)真興王立。諱彡麦宗[或作深麦夫]。時年七歳。法興王弟葛文王立宗之子也。母  夫人金氏、法興王之女。妃朴氏思道夫人。王幼少、王太后摂政。
(三国史記巻四・新羅本紀四、真興王元年)

(4)第二十四真興王。即位時年十五歳、大后摂政。大后乃法興王之女子、立宗葛文王之妃。(三国遺事巻第一・真興王)

(5)恵恭王立。諱乾運、景徳王之嫡子。母金氏満月夫人、舒弗邯義忠之女。王即位時年八歳、太后摂政。(三国史記巻九・新羅本紀九、恵恭王元年)

(6)景徳王立。諱憲英、孝成王同母弟。孝成無子、立二憲英一為二太子一、故得二嗣位一。…(七年)秋八月、太后移二居永明新宮一。(三国史記巻九・新羅本紀九、景徳王七年) 

 まず(3)の場合、真興王は年七歳にして即位するが、王が幼少である故、王母の只召夫人(三国遺事・王暦)が摂政となる。そのことは(4)の『三国遺事』の記事からも裏付けられる。即位する君主が幼いため、生母が摂政となるのは(5)の恵恭王条においても同様で、いずれの例も王の生母を「太后」と称している。しかし(6)の場合は、「太后」が景徳王の生母である炤徳王后(第三十三代聖徳王の正妻)を指すのではなく、先王(第三十四代孝成王)の正妻である恵明王后を指しており、その恵明王后が永明新宮に移居したということである。

 このように、朝鮮資料における「太后」は基本的には君主の生母に用いられる称号であるが、先王の配偶者にも用いられるなど、必ずしも君主の生母に限られるものではないことが分かる。さらに次の例をみよう。(7)宣徳王立。姓金氏、諱良相、奈勿王十世孫也。父海飡孝芳、母金氏四炤夫人、聖徳王之女也。妃具足夫人、角干良品之女也。 大赦。追封レ父為二開聖大王一、尊二母金氏一為二貞懿太后一、妻為二王妃一。(三国史記巻九・新羅本紀九、宣徳王元年)

(8)孝恭王立。諱嶢、憲康王之庶子。母金氏。…二年春正月、尊二母金氏一為二義明王太后一。(三国史記巻十二・新羅本紀十二、孝恭王二年)

(9)昭聖王立。諱俊邕、元聖王太子仁謙之子也。母金氏。妃金氏桂花夫人、大阿飡叔明女也。元聖大王元年、封二子仁謙一為二太子一、至二七年一卒。元聖養二 其子一於二宮中一。…夏五月、追二封考恵忠太子一為二恵忠大王一。…八月、追 二封母金氏一為二聖穆太后一。二年春正月、封二妃金氏一為二王后一。(三国史記巻十・新羅本紀十、昭聖王元年) 

 国内において、自国の王母や王妃を尊んで「(王)太后」や「王后・王妃」と称したことが「(追)封」「(追)尊」記述によく見える。(7)の場合、父には「開聖大王」という尊号を、母の「四炤夫人」には「貞懿太后」という尊号を、さらに妻の「具足夫人」には「~王妃」という尊号を与えている。ことに王母を尊んで「~太后」と称するのは(8)の「義明王太后」、(9)の「聖穆太后」においても同様である。

 それでは、「(追)封」「(追)尊」記述以外の記述には王母を如何に称しているのであろうか。

(10)文武王立。諱法敏、太宗王之元子。母金氏文明王后、蘇判舒玄之季女、庾信之 妹也。…妃慈儀王后、波珍飡善品之女也。(三国史記巻六・新羅本紀六、文武王元年)

(11)神文王立。諱政明、文武大王長子也。母慈儀王后、妃金氏蘇判欽突之女。(三国史記巻八・新羅本紀八、神文王元年)

(12)景明王立。諱昇英、神徳王之太子。母義成王后。(三国史記巻十二・新羅本紀十二、景明王元年)

 各例の傍線部から分かるように、(10)の場合は「文明王后」、(11)の場合は「慈儀王后」、(12)の場合は「義成王后」と、いずれも王母を「~王后」と呼んでいる。

 しかし、王母を「~太后」、もしくは「~王后」と称し得たのはあくまでも国内においてのみであって、対外的には冊封制の厳しい制約を受けることになる。次の例を見よう。

(13)六年春正月、①封三母金氏為二大王后一、妃朴氏為二王后一。是年、唐徳宗崩、順宗遣二兵部郎中兼御史大夫元季方一告レ哀、②且冊三王為二開府儀同三司検校太尉使持節大都督雞林州諸軍事雞林州刺史兼持節充寧海軍使上柱国新羅王一、③其母叔氏為二大妃一、妻朴氏為レ妃。(三国史記巻十・新羅本紀十、哀荘王六年) 

 この例で注意されるのは、傍線①「封」の主体と、傍線②の「冊」の主体が異なることである。①の「封」の主体は、先ほどの例(7)~(9)までと同じく新羅王で、哀荘王が母の叔氏(注1)と王妃にそれぞれ「大王后」と「王后」の称号を授与する。それに対して②の「冊」の主体は唐の順宗で、傍線③の如く、順宗帝が哀荘王の母および妻に「大妃」「妃」の称号を与えており、両側の間には冊封の主体の相違(あるいは対内・対外といった視点の相違)による呼称の不一致が見られる。

 さて、『三国史記』には「高皇后呂氏」「則天皇后武氏」といった中国王朝の王妃にのみ「皇后」号が用いられており、朝鮮諸国の王妃には「皇后」号をまったく用いていない。次の例を見よう。

(14)第二十九、太宗大王。名春秋、姓金氏。龍樹角干、追二封文興大王一之子也。妣真平大王之女、天明夫人。妃文明皇后文姫、即庾信公之季妹也。(三国遺事巻第一・太宗春秋公)

(15)太祖(高麗太祖:引用者注)之孫景宗伷、聘二政承公(新羅敬順王:引用者注)之女一為レ妃。是為二憲承皇后一。(三国遺事巻第二・金傳大王)

 『三国遺事』の例であるが、(14)は朝鮮三国を統一した統一君主太宗が金庾信の妹を王妃に、また(15)は高麗太祖の孫で第五代王になる景宗が新羅敬順王の女を王妃に迎える場面で、二例とも王妃を「文明皇后」「憲承皇后」と「~皇后」号で表してしる。前者の場合は、おそらくは統一を成し遂げた自信と自国に対する誇りが反映された表記であろう。いっぽう後者の場合は、新羅末期の混沌とした時代を終わらせ新王朝を築いた高麗への期待感というものが作用された表記かも知れない。いずれにせよ、「~皇后」号を用いたのにはそれなりの時代意識が反映されたからであろう。

 以上のことをまとめる。朝鮮資料(主に『三国史記』)における「太后」は基本的には王の生母である。そういった「太后」号は、国内において自国の王母を尊んで呼ぶ場合によく用いられる。対外的に冊封制の規制が厳しい中、王母や王妃に「太后・王后」号を用い得たのは、その規制が王(男性)よりも王母や王妃といった女性の方に相対的に緩やかに適用されたからではなかろうか。冊封の主体による称号の不一致もその故であろうと考えられる。


(1) 王母の父の名が叔明で、父の名を負って「叔氏」と言っただろうか。叔明の姓は金氏、奈勿王の十三世孫である。

参考文献

岸俊男「光明立后の史的意義―古代における皇后の地位―」『日本古代政治史の研  究』秩父札所の今昔刊行会編『秩父札所の今昔』(1966)
成清弘和「大后についての史料的再検討」『日本書紀研究11』(1979)
吉田晶「古代国家の形成」『岩波講座 日本歴史2』(1975)
曽倉岑「古事記の大后」『国史大系月報37』(1966)
山崎かおり「古事記の大后」『古事記年報43』(2001)
川副武胤「古事記の女性称号考」『書陵部紀要18』(1966)
田中健夫『中世対外関係史』(東京大学出版会、1975)
東野治之「大王号の成立と天皇号」『日本古代金石文の研究』(岩波書店、2004)

 ※引用テキストは、『古事記』(西宮一民編、桜楓社)、 『三国史記』(学東叢書第十三、学習院大学東洋文化研究所刊)、 『三国遺事』(李民樹訳、乙酉文化社)である。
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