●2005年7月5日 第18回MKCRセミナー

発表者:管 宗次氏
      
武庫川女子大学文学部教授
       サブ・プロジェクトa5リーダー
題目:大山崎と朝鮮通信使
    ─疋田家本『延享五年朝鮮人来朝之節書留』をめぐって─
日時:2005年7月5日(火)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    学術研究交流館1階大会議室(IR-101)

 
発表要約
大山崎と朝鮮通信使
─疋田家本『延享五年朝鮮人来朝之節書留』をめぐって─
管 宗次

  一、 大山崎の疋田家
           ─大山崎離宮八幡宮の当職─

 大山崎は中世における油座が本居としたところで名高い。山崎の地名は名地にあり、播州山崎など国名を冠していうのが普通だが、山崎は天下の山崎ということで「大山崎」と称する。おもしろいのは現在、阪急電車の駅名は「大山崎駅」でJRは「山崎駅」である。二つの駅は歩いても数分しか離れていない。

 司馬遼太郎の小説『国盗り物語』の前半部分の主人公斎藤道三が油座の掟を破り商路を拡大して、様々な困難にぶちあたりながらも、より成功を納めて、より富裕な商人になるストーリーは痛快だが、すべて創作で事実ではない。しかし油座が大山崎離宮八幡宮の神人によって構成され、互助の精神をもって、各々の利権を守りあう姿を、小説のなかに組みいれ、主人公がそれを価格破壊をもって打ち壊そうと試み、中世から近世へと移行する時代の息吹を描いたのは、やはり見事である。

 また、小説『国盗り物語』のなかには、現代の大山崎離宮八幡宮と津田神主(先代)も登場する。その大山崎離宮八幡宮の油座の特権を占め、隆盛を極めたのも中世のおわり、近世の初期までで、エゴマ油からナタネ油へと作物の品種が変わり、エゴマ油より、より大量に油の採れるナタネ油に日本中の燈火がとって代られたため、油座も、その特権を得ていた神人たちも大山崎離宮八幡宮から消えて、社家と言う名と制度がおこり、運営にあたっていたのが、近世(江戸時代)の大山崎離宮八幡宮である。

 江戸時代の幕開けとなる関が原の合戦、大阪冬の陣、夏の陣、いずれの合戦にも、京大阪をつなぐ三川合流の要所(軍事的典拠点)をおさえていた大山崎離宮八幡宮の神官たちは、徳川方に味方し、数多くの中世的勢力が消えていったなか、したたかにも生き残った。徳川家康は、味方についた大山崎離宮八幡宮神官たちに多くの特権を与え許したが、最も神官たちに有難かったのは神領の確保と自治権の維持であった。彼ら神官は他の神社と異なる方法で自治を運営していた。それは正に中世的な方法で、社家のなかから互選によって六家を定め、当職という最高位の執政者を決めるという方法であった。これは幕末まで運営されていった。ただし、互選とはいいながら、当職にあたり運営するだけの力量や財力も必要であるため、年齢なども加案されたようだが、おおよそ数軒の家格の高い家柄から選ばれることが一般的となっていた。

 疋田家はその当職にあたることが多く、大山崎離宮八幡宮の社家のなかでは重きをなした家である。当職は大山崎の行政を執り、メンバーは六人で構成され、社家のなかから互選され、毎年一人ずつ交代、同一人物の在職は六年に限られ、会合は月に一度もたれていた。

 疋田家は社家のなかでも、名家中の名家で、現在の御当主(疋田種信氏)は第四十五代目にあたられるが、新幹線開通のため立ち退きとなった元の社家の居宅の場所は、大山崎歴史資料館学芸員の福島克彦氏の調査によると、中世初期からまったく変わっていないという。また、私が調査した折の、禁門の変で焼失する以前の疋田家の居宅見取図をみると、母屋から渡殿が延々と川までつづき、川べりに納涼所と舟がかりがあり、納涼所は和歌会や連歌会が催された場所であったようだ。

  二、上総局と疋田家の繁栄
          ─尾張徳川家の家臣となった疋田家当主─

 近世(江戸時代)において最も疋田家の繁栄をもたらしたのは、疋田家の二人の女性であった。一人は「摂州郡山郷士小坂庄兵衛女(摂州郡山の郷士、小坂庄兵衛の女〔むすめ〕)」で三十三代当主疋田兼良に嫁いできた女性で、夫の死後に尼となり「貞卯尼」と称した人物である。

 彼女の夫兼良が当職の時に、大山崎離宮八幡宮は、徳川将軍綱吉による修理造営が大規模に行われて、そのことが兼良には出世の糸口となった。そして「勅使少将代」を勤めたりした後に「宝永元甲申(1704)春、尾陽大守の御簾中、召しに依って、関東に下向」という栄誉を得るが、その時の11月11日に61歳で没してしまう。そこから、未亡人「貞卯尼」の大活躍がはじまる。夫とも一度深いつながりのできた尾張徳川家からは深い信頼が寄せられ、貞卯尼は「宝永四年(1708)冬、尾陽大守の御簾中召しに依って、関東に下向、中納言吉通卿とともに、御慈愛に依って、御側に居ること一箇年余」また再度のお召しもあったりして、大変な御気入りの女房であったことがわかる。御簾中とは貴人の正室をさしていう言葉だが、尾張徳川家の第四代目にあたるのが吉通(よしみち)で、その正室は、九条輔実の娘、輔姫(すけひめ)、〔または輔子(すけこ)とも〕で、元禄3年(1690)1月25日生れ、享保16年(1731)5月29日没、42歳、法号は瑞祥院(ずいしょういん)、当時の習わしとして、疋田家の記録にも九条輔姫とは記すことはなく、法号で記されるのが一般であるから、『疋田家系図』にも貞卯尼の条にはこの姫のことが「瑞祥院」と記されている。この九条輔姫(瑞祥院)は、一子を生む、名を五郎太といい、第五代目尾張徳川家当主となったが、わずか三歳で没した。

 また、もう一人、この貞卯尼の娘で与根子(よねこ)という女性が、九条輔子に仕えている。与根子は堀田主計(藤堂和泉守の牢人〔浪人のこと〕)の妻となっていたが、離縁して母が仕えていた九条輔実の姫に母同様に親しく仕え、上総局という局号まで贈られる栄誉に浴し、姫君が死ぬとその悲しみに耐えきれず、姫の死と同じ年の享保16年辛亥(1731)7月14日に没、享年61歳であった。この二人の疋田家の女性たちの活躍によって、戦国時代のような戦場も無く(ちなみに、戦国時代には疋田家の当主たちも合戦に明け暮れていた)、男性の出世の望みのない頃にあって、破格の出世をしている。三十三代当主疋田兼良は、尾張徳川吉通の娘三千君(『疋田家系図では「専姫」』九条家(九条幸教)へ御輿入りに従った功によって、百石の祿高を一代限りで給せられるがこれも母、貞卯尼のつくったコネクションの御蔭であった。また、三十六代疋田兼儔は、尾張徳川吉通の御簾中のお供役で、百五十石の祿を給せられている。第三十六代疋田兼儔と疋田与根子は特別の御恩をもって、名古屋の法華寺に葬られている。

 法華寺(名古屋市東区小川町二十七番地)は織田常勝が延徳年中(1489〜1491)に建てた寺で、名古屋における名刹の一つであるが、第二次世界大戦の折の大空襲によって焼失して、古文書等が一切残っていない。宗派は日蓮宗である。疋田家の過去帖をみると様々な宗派の戒名があるのはこうした理由にもよるようである。

 また、あげればきりがないが、三十六代兼儔の娘が、尾張徳川宗春の馬巡役の吉田幸右衛門に嫁いだり、尾張徳川家とは深く結びつき、あたかも家臣のようであるが、大山崎の社家の身分は保持したままであるし、尾張徳川家とは重縁関係の九条家からは宮中への疋田家官位昇位への積極的な働きがなされ、九条家の家士に準じた扱いを受けている。こうした第三十三代兼良から三十六代兼儔をめぐる四代の当主の頃に、貞卯尼とその娘、上総局とによって疋田家は大山崎の社家のなかでも、際立った存在としての地位を確立したのであった。

  三、疋田家蔵『延享五年朝鮮人来朝之節書留』
          ─『寛永行幸記』との関わり─

 疋田家は、禁門の変で、多くの蔵書、古文書が焼失したというが、それでも千点以上の古文書や蔵書が、今も大切に保存されている。

 今もそれらの一点二点の内容調査にあたっているわけであるが、『延享五年朝鮮人来朝之節書留』の一冊が見出された時には、貴重な書籍の発見だけにやはり興奮を感じた。しかし、読み進めるうちに、大変に内容の良いものであるが、疋田家の当主による聞き書きなどの書留といったオリジナリティーのある資料集ではなく、むしろ『国書総目録』に所載の『延享五年六月登場朝鮮人』((写)旧三井・本居)や『朝鮮人来聘記』((写)宮書・栗田)などの類書で、公的な記録を中心に編まれたもので、噂や伝聞を集めたものではない内容であり、幕府高官の手許にあった記録を写したもののようである。

 延享5年(1748)の通信使は、5月1日に河内枚方に舟中泊し、5月2日には淀より下舟、そのまま京都に入っているので、川筋の反対側にあたる大山崎を通過することはなかった。往路復路は同じ道筋のため、帰路の6月27日から28日も大山崎には通っていない。

 この『延享五年朝鮮人来朝之節書留』とほぼ同じ頃の写しで、写書者(第三十九代当主疋田芳孝)の同じ本(同筆)が、同様の装丁で残っている。それは徳川将軍家が京都の公家衆や町衆、ひいては全国大名に徳川家が天下人であることを知らしめた一大イベント、後水尾院の行幸を二条城に賜った折の記『寛永行幸記』の写本である。『寛永行幸記』は古活字本が著名で、整版本もあり、書誌的に興味深い本であるも、写本が多く写された本である。

 疋田芳孝は、疋田家の近世中期における中興の人で、『引田家家譜』や『疋田家系図』を整理浄書した人物である。また、この芳孝(はじめ兼芳と名乗り、後に芳孝と改める)は、疋田家歴代当主のなかでは最も和歌連歌に熱心の人で、数多くの和歌懐紙や、まとまったものとして句歌集『習葉集』を残している。また、本来三十七代目疋田兼貴の三男であったが、当主に後継ぎがなく、本家にもどった人物であるが、疋田家の古文書を整理したり、疋田家の家格を上昇することに、より熱心であった。

 『寛永行幸記』も『延享五年朝鮮人来朝之節書留』も、この疋田芳孝がほぼ同じ頃に、同じ所蔵先より拝借し、その所蔵先は、おそらく九条家や尾張徳川家と近い立場、もしくは、それらの重臣側近で、それらの貴重な書籍を写すことで、疋田家当主として、いつかやってくるかもしれない朝鮮通信使への応接や行幸の折の応対に、有職故実の料として、疋田家にも一冊備えるべきを感じて写したと考えるのがよいだろう。

 疋田家の歴代の当主たちが写し残してきたものの一点である『延享五年朝鮮人来朝之節書留』は、庶民や、応接応対に直接関わらぬ人々には珍しい異国からの到来者としか目に映らなかったかもしれないが、疋田家の当主には、将軍の就任の度にやってくる朝鮮通信使への饗応接待は、徳川家の式典に参座する家柄として、有識故実の一つととらえており、深く熟知しておく必要があったのであろう。

<参考文献>

○ 李元植・大畑篤四郎・辛基秀・田代和生・田中健夫・仲尾宏・吉田宏志・李進熙著『朝鮮通信使と日本人』(学生社、1992年3月25日刊)
○ 徳川義宣・山本泰一監修『徳川美術館名品展「姫君の華麗なる日々」』図録(朝日新聞社、2004年)
○ 管宗次編『大山崎離宮八幡宮神官疋田家文芸資料集』(関西文化研究叢書別巻・武庫川女子大学関西文化研究センター、2005年3月31日刊)
○ 魚澄惣五郎・沢井浩三著『離宮八幡宮史』(離宮八幡宮遷座壱千百年記念奉賛会・吉原製油株式会社内、昭和31年9月15日刊)
○ 名古屋市教育委員会編『名古屋の史跡と文化財』(名古屋市教員委員会、昭和45年3月1日刊)
○ 吉川一郎著『大山崎史叢考』(創元社、1953年9月20日刊)
○ 大山崎町史編纂委員会編『大山崎史』(本文編・大山崎町役場、昭和58年10月20日刊)    

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