●2005年1月30日(日) 共催シンポジウム
公開講演とシンポジウム「多武峰談山神社の絵巻−大職冠と増賀上人−」

公開講演とシンポジウム「多武峰談山神社の絵巻−大職冠と増賀上人−」報告
 上記のシンポジウムが、2005年1月30日(日)、奈良女子大学記念館講堂で開催された。このシンポジウムは、談山神社が所蔵する「多武峰縁起絵巻」と「増賀上人行業絵巻」が、奈良女子大学<奈良地域歴史的文化財デジタルアーカイブ>によってWWW公開されたことを記念して、談山神社のご協力のもと、奈良女子大学地域貢献特別支援事業と武庫川女子大学関西文化研究センター(サブ・プロジェクト<近畿諸社寺に関わる社寺縁起の生成と発展>)の共催により開催したものである。幸いにも約300人もの聴衆が集まり、盛会裡に終えることができた。ここにその概要について報告しておくことにする。

 シンポジウムは三部に分かれ、午前に第一部が行われ、初めに奈良女子大学付属図書館長的場輝佳教授の挨拶があり、「本シンポジウムは武庫川女子大学関西文化研究センターの学術フロンティア推進事業との共催でして、国立大学と私学が枠組みを超えて取り組んだということはこの分野としては画期的なことで、素晴らしい成果であると自負しております」との言葉があった。
 引き続き、報告に移り、奈良女子大学大学院生の徐志紅氏が、「多武峰縁起の概略」と題し、多武峰縁起の内容、及び奈良国立博物館に寄託の絹本と談山神社にある紙本との相違などについて報告した。
 次に、奈良女子大学大学院生の相川純子氏が「「多武峰縁起」の諸本―一条兼良の役割―」との題名で、写本として伝わる多くの「多武峰縁起」の校合を行い、それと絵巻との流れを整理した。更に絵巻本の筆者とされる一条兼良について、確実に彼のものとされる書と、絵巻の書とを比較して、兼良とする通説には疑問を呈し、「15世紀に兼良自筆の縁起絵巻が実際につくられ、存在していた可能性も」否定できず、その「兼良自筆の絵巻を複製した形が、現在われわれが見ている現存の絹本」であると可能性が残る一方、「天正13年(1585)に正親町天皇に叡覧しているので、1585年以前の作であることは」確実だと思われるが、多武峰は1506年に焼けており、「この1585年以前の1500年代に多武峰を再興していくために、あるいは権威づけのために一条兼良に仮託していったという可能性」も否定できないとした。
 第一部の最後に、談山神社宮司川南勝氏の特別講演「多武峰談山神社と秀吉・秀長」があり、多武峰の歴史を振り返りつつ、法相宗から天台宗系統への移り変わりと、秀吉、秀長の2人が中心になって郡山城をつくってからの宗教政策、ことに多武峰の郡山移転前後を中心に、お話があった。
 昼の休憩を挟み、第二部が行われ、奈良国立博物館資料室長の西山厚先生と奈良大学の塩出貴美子教授の講演がもたれた。
 西山氏は、奈良国立博物館で1月23日まで開催されていた、特別陳列の「談山神社の名宝展」でもその企画段階から携わっておられ、その展覧会を経験したことによってわかったこと、思ったことなどを入れながら、「多武峰の歴史と文化 談山神社展レポート」と題して、講演された。講演はスライドを使用して行われ、多武峰談山神社に伝わる、古文書、工芸品を紹介しながら、そこで行われた法要や会式についてのお話があった。また、鎌足の伝説との関係から多武峰には「維摩経」に関わるものが多く残されており、その注釈書の紹介や鎌足公の神像などについて話された。
 二つ目の講演は、塩出貴美子氏が「多武峰縁起絵巻の問題点」と題してなされた。四巻絹本「多武峰縁起絵巻」について、その画面に見られる特徴、問題点を中心に話された。なぜ紙本ではなく絹本で作られたのか、他と異なり漢文の詞書きなのか、詞書きを色紙形で入れているのはなぜなのか、さらに、そこに見られる画面構成の特殊性という、四点から話をされ、そのことから、「多武峰縁起絵巻は元来絵巻という細長の場面ではなくて、もとは壁画とか障壁画などの大画面の構成のものだったのではないか」との考えを述べられた。さらに、現在の絹本から大画面構成の影響と思われる部分、一見連続画面構成のように見えていながら、場面と場面がほぼ垂直に断絶していると思われるような箇所と、図様の不足、表現の曖昧な部分とを特に取り上げて、大画面構成だった可能性の高さを指摘された。最後に絵巻の作者が土佐光信、あるいはその後継者である光茂とされていることについて、両者の他の作品と比較し、美術史的に見ると、現在の絹本は少なくとも土佐派の作品とは考えられない、と結論づけられた。
 休憩を挟んで、第三部のシンポジウムが開かれた。パネラーは兵庫県立歴史博物館の主査である五十嵐公一先生、慶応大学の石川透助教授(慶応大学HUMIプロジェクト代表者の一人)、武庫川女子大学の塩出で、コーディネーターは奈良女子大学の千本英史教授が務められた。
 まず、塩出が漢文表記という点から、特に菊亭本の末尾につけられた「草案法橋永済」の一句から、「草案」という詞を手がかりに、従来この時点から絵画化され同時に詞書きがつけられていたとの考えに、疑問を呈し、永済(えいさい)の生存の可能性は低く、良賀の発願によって制作された当初は絵画化されただけで、永済の作とされる文章はつけられておらず、それは絵解きに使われた可能性を指摘した。また、一条兼良が文章を手直ししたとの説についても、改訂したことは認められるものの、それが兼良とする根拠に乏しいことを指摘した。最後に、多武峰が所蔵するもう一つの絵巻である「増賀上人行業記」と比較し、文章としてみた場合、増賀のものの方が文章的には整っていることを述べた。
 次に、石川氏が、イギリスのチェスタービューティ・ライブラリーが所蔵する、もう一本の「増賀上人行業記」との対比を中心に話をされた。談山神社が所蔵するものには、詞書きに極め書きが付されているが、チェスタービューティーのものは、その末尾の書き入れから正徳元年(1711)に芳岸という絵師が書いたものであり、その画面の対比がなされた。
 これについては千本教授から補足説明があった。多武峰本は極め書きに記された人名から、詞書きの最も新しいものは1700年に生まれた滋野井中将家久のもので、「増賀上人行業記」の絵を描いたとされる狩野永納は1697年に亡くなっている。しかしそれは絵師が永納ではないという意味ではなく、それまでに作成されていた絵と詞書きが最終的につなぎ合わされたのは、享保10年(1725)のことと考えられる。また、チェスタービューティー本は詞書きの補修部分から見て、一巻本の詞書きだけが別にあったことは確実で、チェスタービューティーに売却する前に、画商の手でつなぎ合わされたものと考えられるのと指摘があった。
 次に、五十嵐氏が過去に「狩野永納展」を開催したときの経験から、そのとき出展しなかった、この多武峰本の作者はその筆致や他の永納の作品と比較しても、多武峰の「増賀上人行業記」の絵師を彼と断定しても問題はない、との指摘があった。またそこには後水尾天皇の存在が多武峰に伝わる文化財に影響を与えていたと考えられる、と述べられた。
 最後に、四人による補足説明がなされた。

 付記 このシンポジウムの発言については、奈良女子大学の方で冊子化を計画されている。また、発表者のより詳しい内容については、それぞれが別に発表するものと思われるので、その概要にとどめた。(文責:塩出)






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