●2004年12月21日 第9回MKCRセミナー

発表者:増田 繁夫 氏
      
武庫川女子大学教授
       サブ・プロジェクトc1リーダー
題目:白砂・海浜の風景―寝殿造住宅の庭園―
日時:2004年12月21日(火)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    中央館(中央図書館棟)7階708教室(C-708)
 増田先生
発表要約
白砂・海浜の風景
―寝殿造住宅の庭園―
増田 繁夫
 平安時代の寝殿造様式の住宅では、一町(約一二〇u)の敷地の中央に南面して主殿の寝殿を建て、その東西に対屋を設け、各対屋から南に中門の廊を延して前庭を囲い、庭の南には池を掘る、というのが典型的なものであった。寝殿の広い前庭には草木はほとんど植えられずに、厚く一面に白砂が敷詰められ、雑草が生え出さないように整備され、絶えず白砂が補充されていた。中には内裏の紫宸殿や清涼殿、里内裏となった一条院のように池のないものもあったが、寝殿には白砂の広い前庭が必ず設けられていた。
 こうした寝殿に付属する白砂の前庭は、既に飛鳥・奈良時代の貴族住宅における、岩石を敷詰めた泉水や海浜や松島を模した庭、荒磯の風景を移した草壁皇子の「島宮(万葉集・一八一)」、橘諸兄邸(万葉集・四二九五)の白砂青松の海浜の庭、などの伝統を基本的には受継いできたものと考えられる。それらは、海浜からは遠い奈良や京都の盆地に住んだ人々の海への憧れなどとされることもあるが、やはりそうした説明だけでは物足りない。人々の心を海浜へと強くひきつけたものは何だったのであろうか。
 平安貴族たちは、常住の住居の前庭一面に白砂を敷詰めただけではなく、一時的に身を置く場にも庭を設け、白砂を敷いた。「一条の大路に檜皮の桟敷いといかめしうて、御前にみな砂子しかせ、前栽植ゑさせ(落窪物語・二)」などと、四月の賀茂祭見物のためだけに使用する桟敷にも、その前庭に白砂を敷き松を植えたり、松の枝を切って立てたりした。また、天皇や上皇の郊外への行幸に際しては、その休憩所にも「緑松ヲ立テ白沙ヲ敷カシメ(中右記・承徳元年三月廿七日)」たりしたのである。さらにまた、それらの庭に敷詰める白砂も、単に白い砂であればよいというわけではなくて、時には
清涼殿の南の妻にみ川水流れ出でたり。その前栽に松浦沙あり。延喜九年九月十日に賀せしめ給ふ。題に「月にのりてささら水をもてあそぶ」、詩歌心にまかす
ももしきの大宮ながら八十島を(書陵部本「雲の上を」)見る心地する秋の夜の月
                                (西本願寺本躬恒集)
と、内裏清涼殿の東庭には、遠くはるばると肥前の松浦の海浜から運んできた砂を用いたりすることもあった。この躬恒の歌からすれば、庭の遣水や松浦の浜の砂を照らす白々とした月光の風景に、人々は海洋の島々の姿を思い、あるいは、天空の彼方にある遙かな世界を幻視することがあったのである。
 肥前国松浦の地は、古く遣唐使の船出した所としても知られているが、殊に白砂青松の続く海浜の美しさでも知られていた。松浦や肥前・筑紫などの北九州の海岸には、瀬戸内海一帯とともに、白砂青松の広がる風光明媚の海浜が多かった。またそこには、松浦の鏡神社・箱崎の八幡宮・宇佐の八幡宮など、応神天皇や神功皇后を祭った八幡宮が点々として存在する。これら「松浦・箱崎、同じ社なり(源氏物語・玉鬘巻)」とあるように、天皇家ゆかりの神として考えられていたものである。実は「松浦」の地名もまた神功皇后に由来するものであった(神功皇后摂政前紀)。これら各地の八幡宮の総本社の豊前国宇佐八幡は、平安京の鎮護を願って石清水八幡宮として勧請されている。摂津の海浜もまた白砂青松の光景にめぐまれていたが、神功皇后の新羅遠征に従った神々は瀬戸内海を帰る途中、事代主尊は長田国に(長田神社)、天照大神の子の稚日女尊は活田国に(生田神社)、天照大神の荒魂は広田国に(広田神社)、表筒男ら住吉三神は大津淳中倉の長峡に(住吉神社)鎮座することを願って、各社の祭神となったという(神功皇后前紀)。
 さて、佐賀県三養郡の千栗八幡社は応神天皇や神功皇后を祭神とするが、そこには「千栗八幡縁起」なる掛軸が伝えられている。また、筑後国一宮の高良大社(久留米市)は、いま高良玉垂命・八幡大神・住吉大神を祭神と伝え、ここにも「高良社縁起」なる掛軸がある。両者はともに室町後期成立と推定され、絵の構図もよく似た神功皇后の新羅遠征などの画面により、両社の縁起を説いたものである。縁起絵あるいは参詣曼陀羅と呼ばれて、もと参詣者に対する絵解きに用いられていた。この二つの縁起絵で注意すべき点は、白砂青松の浜辺で人々が神楽を行い、八乙女と呼ばれる八人の巫女が海に向って神楽を舞いながら、海上から亀の背に乗ってやって来る神を迎えている図が描かれていることである。この海の彼方から亀の背に乗ってやって来る神というのは、浦島説話との関係からしても興味深いが、いまの場合には、白砂青松の海浜は、遙か海の彼方からやってくる神を迎える場だ、というイメージを古代人がもっていたらしいことを示すという点である。西宮社の夷神も、蛭子として生まれたがために大海に放逐されながらも、再び海の彼方から白砂青松の鳴尾の浜に帰り着いて、夷三郎として活躍した。
 平安貴族が、日常住む寝殿の前庭に白砂を敷詰め松を植えたのは、直接には白砂青松の海浜の光景を身辺に移すことにあったが、その背後には、古代人たちの限りなく広大な海洋に対する深い憧れの心を認めることができる。平安貴族たちは、住居の庭に限らず身辺のさまざまな場で、海浜・水辺の風物を文様などに用いて愛好した。経典や歌集などの書物の料紙の下絵や装飾絵には、海浜や水辺の風物の描かれた遺品が多いし、硯や櫛の箱など調度品のデザインや文様、特に身を飾る衣裳の文様などに多く用いられたのである。それら大海の白波や貝、浜辺や州崎の松・千鳥・鶴など、海浜の風物を文様化したものは「海賦(海浦)」と総称され、祝意をもつ文様として人々に愛用されたものであった。
 中でも人々に好まれたのは、海浜の風景・風物を模した作り物の「洲濱」である。これは歌合などの儀式の場や人への贈物を置く台などに広く用いられ、趣向をこらしたものが作られた。この「洲濱」は中世以後になると、「今時、蓬莱の島台とて、洲濱の台に三の山を作り、松竹・鶴亀などを作り、その下に肴をもり置く事、昔より有りし事也(貞丈雑記)」というように、蓬莱をかたどった型式の「島台」として固定してゆくが、もとは広くさまざまな海浜・水辺の風物を作り物にしたものであった。おそらくは古代の人々もまた、その海浜の風景の彼方に蓬莱などの仙境を見ていたのであり、それがより判りやすく具体化されて、蓬莱の島台となっていったのであろう。
 後世に日本三景とされる天橋立・松島・宮島の名勝は、いずれも白砂青松の海浜の風景をいったものである。安芸の宮島が注目されてくるのは中世になってからであり、松島も古くは「塩竃」の名で呼ばれていて、九世紀末に源融が鴨川のほとりに広大な「河原院」を営み、陸奥の塩竃の景を移した庭を作って、淀川口から海水を運ばせて塩を焼いた風流が有名になってからである。融が遠く陸奥の海浜を移した庭を造ったのは、九世紀前半の政府の奥州の植民地経営により、新しく陸奥が都人に注目されたからであろう。
 それに対して天橋立は、既に丹後国風土記にも伊射奈芸命が「天ニ通ヒ行デマサムトシテ、椅ヲ作リ立テタマヒキ、故、天橋立ト云ヒキ」という地として知られていて、殊に白砂青松の見事な光景である。古代人にとって、海に向って長く延びる白砂の崎の彼方に、天上の仙界を思ったのである。この地の漁師であった浦島もまた、常世の楽園へ行った人であった(丹後国風土記)。万葉集では、浦島は摂津住之江の岸から常世へ船出したことになっているが、この住吉もまた白砂青松の美しい浜であった。これら白砂青松の海浜は、人々が常世へと出発した地であっただけではなく、また仙界の天人たちの地上の人間界へと降りてくる所でもあった。羽衣説話で知られた駿河の有度浜(三保の松原)、「この浜は天人常に降りて遊ぶといひ伝へたる所也(増基法師集)」という紀伊の吹上浜(和歌山市)も、古くは「吹上浜ノ地形の為体、白砂高ク積ミ遠ク山岳ヲ成ス、三四十町許リ全テ草木無シ、白雲ヲ踏ムガ如シ、誠ニ以テ希有也、此ノ地ノ勝絶、筆端ニスルコト能力ハズ(中右記・天仁二年十一月六日)」という広大な白砂の浜であった。
 伊勢宮の祭主で歌人でもあった大中臣輔親は、平安京六条の屋敷に天橋立を模した庭を作り、月を見るために寝殿の南庇は設けず、月夜には夜明けまで起きて月を眺めていた。夜更けにそこを訪れた懐円法師は、輔親とともに月を見て「池水は天の河にや通ふらん空なる月の底に見ゆるは」という名歌を詠んだという(袋草紙)。この歌も、前庭の白砂の向うの池に映る月を見て、遙か天の川まで憧れてゆく心を詠んだものである。
 寝殿の前庭の白砂は、清浄感をもたらすためもあったであろうが、やはり聖なる空間を構成する重要な要素であり、清浄さもまた古代にあっては聖なるものの第一の条件だったのである。白砂とともに植えられた松も、色変りせぬ常磐木というだけではなく神の影向する木であり、いまも新年の門松に用いられている。古代末期にもなると、もはや神を迎える場という意識は希薄であったかもしれないが、中世の人々の屋敷の貴人を迎える玄関には白砂が敷かれていたし、神聖な裁判を行う場には白砂を敷いて、「白洲」と呼んでいたのである。日向国都城の付近では、大晦日には神社や一般の人々の家の庭などに新しく「シラス」をまいて、神を迎える行事が現在でも行われている。
 平安貴族たちの寝殿前庭の白砂や松や池水は、もと神を迎える聖なる空間を演出するものであったが、それはまた、人々がその庭の彼方に仙界を幻視して、世俗に汚れた心を浄化する場でもあったのである。無限の彼方へと広がる海浜の光景には人の心を深くうつものがあり、遙かな世界へといざなう何かがあった。
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