●2004年12月18日 サブ・プロジェクト・セミナー
共催:京都市
発表者:尼崎博正(京都造形芸術大学副学長/農学博士)
題目:京都の借景
日時:2004年12月18日(土) 13.30〜15.30
会場:京都市景観・まちづくりセンター
    〒600-8127 
    京都市下京区西木屋町通上ノ口上る梅湊町83番地1
    (河原町五条下る東側)「ひと・まち交流館 京都」内
    Tel 075-354-8701
    Fax 075-354-8704
(作成 平野、天畠、大谷)

■出席者 (敬称略)
 尼崎博正(京都造形大学副学長)
 岡崎甚幸(武庫川女子大学教授、京都大学名誉教授)
 大谷孝彦(設計事務所ゲンプラン、京町家再生研究会)
 大場修(京都府立大学)
 佐野春仁(京都建築専門学校)
 天畠秀秋(武庫川女子大学管理部)
 矢ヶ崎善太郎(京都工芸繊維大学)
 荒木正亘(アラキ工務店)
 吉田秀雄(幾央大学)
 新喜富雄(京都市風致保全課)
 影近晴治(京都市風致保全課)
 江田頼宣(京都市都市づくり推進課)
 河野武幸((株)精膳)
 奥美里(景観まちづくりセンター)
 湯浅博央(景観まちづくりセンター)
 末川協(京町家再生研究会)
 芝田佳奈(武庫川女子大学)
 平野麻衣子(武庫川女子大学)
 吉池文枝(京都工芸繊維大学) 

 欠席 中川理(京都工芸繊維大学)
    丹羽結花(京都工芸繊維大学)
    増井正哉(奈良女子大学)
    宗田好史(京都府立大学)
    室崎益輝(独立行政法人消防研究所)
    
■議題 (1)尼崎博正氏の発表
        題目:京都の借景
      (2)尼崎博正氏の発表に対する質疑
■尼崎博正氏 発表の要点

○庭園や環境に対して討論する中でどういう風な認識がなされてきたのか。
 造形、空間の把握を歴史的なことを中心に見ていく
・平成4〜5年に114か所 庭園の借景を調査した。
・平成8年に都市景観の法が改正され、大幅な見直しがなされた。
 実際には円通寺の借景に対してきめ細かい分類がどのように作用したかなど具体的な例もある。
・今回の発表は『風景をつくる』(昭和堂)の内容に基づく。
 
○日本庭園の不易と流行
  ずっと変わらないものと、時代によって変化していくものがある。
不易の部分:自然というものに思いを馳せる。周辺の自然景観との関係・眺望
  流行の部分:今は閉ざされた日本庭園が多いが、
  これは周辺の土地利用の変化・時代の流行とのかかわりの中で変わってきている。
  庭園全体の空間、周辺の状況も広さもがらりと変わっている。
  銀閣寺の庭園もその例のひとつで、創建当時のままではなく、
  庭園内の地割、池の形、建築も変わっている。
  
 ・修学院離宮のデザインは明治時代以降のもの。
  霊元上皇や光格上皇が利用していた時代もあったが、間で利用がなくなる時期があった。光格上皇の次は明治維新に至るまで利用されなかった。
  庭は30年置いておくとガラッと変わってしまう。
  明治時代に、荒れ果てた庭を整備するために現在の修学院離宮のデザインが考えられた。
  
・庭が変わっていくのは現場サイドの結果であって、仕方がないこと。
 名勝庭園は庭の管理者が上塗りするなど手が加えられ、 一世代ごと、あるいは十数年ごとに変わっていく。 それにも関わらず、不易の部分としての自然・眺望がある。

○庭園の様式は流行に属する
 ・眺望の伝統
平安時代の作庭記の作者 橘俊綱と白河上皇との庭園論議(今鏡)の逸話
   1080年〜1090年ぐらいの時代の話と推定できる
   「白河上皇が今いちばんすばらしい庭はどこか?」と聞いた問いに対して橘俊綱は、1番目に石田園(三井寺周辺の琵琶湖が見えるところ)、二番目に高陽院(藤原頼道の邸宅)、三番目に伏見の邸宅(乃木神社のあたり)だと答えた。
   この三つの庭に共通するのは周辺の自然景観の眺望のすばらしい所で周辺の地形が変化しており、全体の空間での地形変化があるということである
  
   庭園は地形の変化と眺望がないと一流のものではない。この二つを兼ね備えていることが大事であるが、ある閉鎖空間でのデザインと見がちになってしまっている。 

○桂離宮
  初期桂離宮  1620年代(1617年頃)
   どういうものだったかはよくは分からないが内藤先生が推論している。
   今の様に整った形ではなく、もっと桂川に近くまで広がっており、自然の中に茶屋がポツンとあったのではないだろうか。二代目桂離宮 再生が行われて、ほぼ現在のような形になった。
 ・1625年:金地院崇伝が来て、桂庭園の賛を詠む
   大きく言っているのは眺望。比叡山・女人岳・鷹峯・松尾神社の甍など
        →非常に広い眺望とその中の歴史的建造物の存在に注目していた。
  
   自然景観は最初は庭園の遊びとか儀式の背景としてしか存在していなかったが、自然を特殊化し、対象として認識するようになったのはいつ頃か。周辺の自然が目的になってくるのにはどのようなプロセスがあるのか。
  
  例)天竜寺:嵐山に桜を植える
   客観的な自然の変化だが桜の色彩に注目して嵐山の景観を特殊化し、それをのぞむ行為。
 
○楼閣:視点場を上にあげる装置
奈良時代にもあるが、庭園の中の建築として現れたのは西芳寺が初め。
  庭園の俯瞰と周辺の眺望という両方の役割を持っていた可能性がある。
  高印山の上の尾根の部分に眺望施設を持っていたので一概には言えない。
  眺望行為は不易として庭園に何らかの形で組み込まれていたのではないか。
  
○桂離宮と修学院離宮 
  桂離宮は凝縮された空間、修学院離宮は雄大で周辺と一体化した空間と言われることがあるが、これはおかしいと思う。
  桂離宮の形が明確なものになったのは1650年代で、これは修学院離宮ができた時代と同じ時代である。
・ 桂離宮はもう一つ眺望の施設持っていたのではないかという説
  向日丘陵の広野山荘に行き、お茶屋山に登って眺望を楽しむという壮大な利用の仕方があった。そこからは伏見から比叡山まで見える。
  これをコンパクトにしたのが修学院離宮なのではないだろうか。
  この考え方をもっと明確にしたのが「借景」の思想。
  
・借景という言葉:中国の『園冶』という書物(1631年)に出てくる
  近借・遠借(近く・遠く) 
  俯借・仰借(見下ろす・見上げる)
  
  この考え方が日本に入ってきて一般化していくのは1600年代の中頃で円通寺ができたのと同じ頃である。しかし円通寺がもともと借景庭園だったかどうかは分からない。
  近世になってひとつの視点場と借景の対象が明確に結びつく。
 
 ・借景の考え方を喝破したのが岡本太郎
  弁証法:自然と反自然を対立させたまま融合
      人工的な線(見切り)を一本入れて実現した。
  
 ・近代では小川治兵衞が南禅寺界隈で新しい自然との関係を形づくっていった。
  弁証法とはまた違う手法。

○スライド
 ・奈良:庭園と建築との関係にレベル差があり、スケール感が少し狂う
  奈良の街並みを隠すために木を植えたために本来の庭園ではなくなってしまっている。
 
 ・京都御所
  紫宸殿は南を向いているが他の私的な空間はすべて東側を向いている。
→東山を意識した地割
  
 ・和歌山の養翠園
  汐入の池:自然の海水を庭園に取り入れている。
  山が借景として重要な役割をしているのに、最近では山の開発により建物が建ち並び
  景観が壊されてきている。
  ちょっとした工夫で周辺環境は保全できるのに残念なことである。

 ・大覚寺
  大沢池  北山とその周辺の山に囲まれてできた大きな空間

 ・大徳寺 方丈の庭園
  東側には比叡山が山裾まで見え、雄大な景観が広がっている。南側は凝縮した空間。
  しかし現在では町並が見えて、どんどん庭の空間がせばまってきている。
 
・円通寺
 見切りの線が入っている。
 中間に建築が見えないようにするために竹が植えられている。
 現在は視覚的な話だけしかしていないが音も問題である。
 →車の音や人が密集することによって発生する色々な音(ざわめきなど)
 
 ※借景の対象の角度
  比叡山から円通寺の距離が重要で6〜7キロぐらい。
  人の眼球運動の範囲で見られる範囲:仰角7.5度。
 見切りの線は−1度くらいに設定される。
  様々な借景の事例を見てみると大体そのくらいの角度になっている。
 
 問題は中間領域でビルなど色々なものが進入してくると景観ががらっと変わってしまう。
 
・銀閣寺 
 赤松の重要性:昭和9年の室戸台風以降、衰退し壊滅の危機。
 早期緑化のために昭和10〜11年にシイとクスの木を植えた。
 その結果最近では赤松を優勢にするために人間の手でシイを切らないといけなくなった。
 自然に置いておくと照葉樹などが優勢になってしまう。
 人間の生活とともに生きてきた人文景観。
 
 自然はそのままでも林層が変わってしまうと庭園そのものが死んでしまう。

・桂離宮
 いちばん高いところに賞花亭を設ける。賞花亭から愛宕山が見える。
 
・修学院離宮
 西浜がものすごく効いている。 岡本太郎の弁証法のような手法。
 
・清水寺 成就院
   あまり手入れされていない。
   山にかなり近いので木のテクスチャが全部見える。
   庭から見える周辺の空間に人工のものを置くことにより
   自然を庭園化させるのは日本の伝統的な手法。
   
  このように色々な手法が近世までに行われてきた。

 ○奈良の聚光院、修学院離宮:俯瞰すると景観の要素や中身をどうするかが非常に問題
    
   俯瞰眺望の場合、初めから見せるのではなく、閉鎖された空間からバサっと一気に見せるという手法がよく取られ、心理操作をする。
   眺望の世界とは縁のなさそうなお茶の世界でもこの手法が使われる。
   →つくばいを見るとそこからだけ海が見える
    織部が突き上げ窓をあげると愛宕山が見えるなど意外性がある手法  
  
 自然と素直に対抗するのではない。
 ある瞬間、自然と結び付けられる空間・スポットがある。
→色々な意味で参考になるのではないか。

 ○近代の小川治兵衞
   近代造園の先覚者。南禅寺界隈で作園し、新しい時代の庭園をつくっていた。
   
  ・無鄰菴
   東山を背景にし、疏水を利用。
   数年前にもう少し東山が見えるように木が操作された。
   明るく広々とした空間であるが眺望景観が狭められてきているので、
 色々な模索がされている。
   
・ 平安神宮
 広場に出ると本来の姿がよく分かる。 池や樹木があり、普通に歩いていると東山が見えないが、自分で見る角度を操作すれば見える。

・對龍山荘
 東山を背景にし、色々な仕掛けがしてある。山の近さ(1キロ前後)が円通寺と違う。
 
・織寶苑
 人工林などシイで形成されている→室生台風以降の植生変化による。
 近さで東山との連続性を意図している。
 非常にアンバランス。 弁証法とは別の手法があるのではないだろうか。
  
・赤松の林の中
 こもれびの空間
 飛び石で渡ることにより水との関わりが非常に強くなる。
 身体空間での自然・水との関わりかたなどトータルで考えたのが小川治兵衞。
 人の生活の匂いのするものを自然の中にはめこむことにより
 歴史的な空間の懐の太さを演出している。
 
・住友の有芳園
 赤松だらけ、すごい手入れをされている。東山との距離がかなり近い。
   近くなればなるほど林層のギャップがいかに大きいかよく分かる。
 
  ・清風荘
   建物の間から大文字焼きが見えるが、「大」という字だけしか見えず非常に寂しい。
  
  ・松下の真々庵
   杉を植える位置により新たな景観ができてしまう。
南禅寺の三門が一箇所でだけ見ることができる。
   
  ・円通寺の自然の周辺景観との関係
   東山は、山のふところの中で包み込まれた空間との関係や樹木のテクスチャなどちょっとした変化をすると崩れていく様な危ういところで空間が成り立っている。  
   
   人の営み、歴史的な建造物を融合的に結合させるのは奥ゆかしい。
   
  ・厳島神社
   信仰の対象としてあのような位置に存在するということが自然を庭園化している。
   神社の方から見ても鳥居を介して対岸の形式と繋げてしまう。
   このような手法が自然とあった。
 
  ・琵琶湖の浮御堂
   大規模な自然の中に重要な人工物がある。
   自然そのものを庭園化させるような方法  
   
   人工物:歴史の深み、生活空間の懐の深さが分かる。
   このような微妙なもので借景や周辺景観のすばらしさを感じることが重要なのではないだろうか 。  

■質疑・議論のまとめ
○岡崎甚幸 
 自然を視覚的目標の対象として認識するようになったのはいつからですか?

○尼崎博正
 天竜寺のころです。

○岡崎甚幸
なぜその頃からなのでしょうか?
西洋では風景画が15世紀頃からダ・ヴィンチなどによって描かれてきた。
 中国では4世紀ぐらいに自然だけを対象として風景画が存在している。日本では天竜寺の時代よりもう少し前から対象化することが絵画ではできたのでしょうか?
 絵画と庭との関係はどういうことになってきたのでしょうか?

○尼崎博正
 それはすごく重要な視点です。イギリス形式庭園との関係もありますが、日本の方がちょっと遅れていそうです。世界的に検証する必要があります。
 
○佐野春仁
 日本には古来より歌があります。
 歌の世界では「山」などが出てくるが、意識としてはもっと前から特殊化されていたのではないでしょうか。

○大谷孝彦
 古来から認識していたのでしょうが、 嵐山に桜を植えた話がありましたが、積極的に植えるという行為はこの時が初めてだったのではないでしょうか。

○尼崎博正
 和歌は重要です。
 どうしてそういう形に空間を把握していたのかはもっと根源的な問題である。それと連動した中での考察でないといけない。
 世界が景色を認識する共通のものは「名所」である。

○佐野春仁
 小川治兵衞の後は、昭和の成功が挙げれますね。特に鴨川景観など。
 各橋において違った景観というのがうまくいった事例だと思いますが、これは意図したもの
 なのでしょうか?

○新喜富雄
 1930年に京都市が鴨川を風致地区に指定しました。このことにより守られているのではないか。もともとの条件のよさもありますが、風致地区の指定もありますし、邸宅を建てる部分にも厳しい規定がかかりました。

○尼崎博正
 鴨川の河川改修は何処がやったですか?

○新喜富雄
 京都府がやっていて、自然を守る観点からきています。

○尼崎博正
 都名勝図会では人文系が自然の中に溶け込んでいますが、今はきれいな景色を求めているのではないでしょうか。

○佐野春仁
 我々は農村を捨ててきていますが、美しい農村の風景を言葉に換えていかなければ保存できないのではないでしょうか。農村は電線や道路によって壊されてきました。
 浮世絵の世界にも出てきます。きちんとした言葉で農村風景を言う必要があります。

○尼崎博正
 失ってきたと言われますが、平安時代の3つの名所の一つの伏見邸では山道があり、そこに旅人を歩かせたりして、意図的な風景をつくっていたという話もあります。
 
○奥美里
 最近、高台寺などで庭園のライトアップがあり人気を集めていますが、このことについてはどう思われますか?

○尼崎博正
 もみじ、桜、新緑の季節ですよね。他の物が見えないからいいのでしょうね。
 情報が集約されているから良いのではないでしょうか。

○岡崎甚幸
 町家と借景の関係はどうなのでしょうか?

○尼崎博正
 町家と借景というより、通りから山を見るのではないでしょうか。
 生活の中で山を見ていたのではないでしょうか。

○岡崎甚幸
 広重の絵には富士山が見えていたりと町の中からの借景が多いですが、京都はあまりありませんよね。

○大谷孝彦
 蔵があるので町家からはそういうのはなさそうですね。しかし屋根の上に登って大文字を見るという風習はあったと思います。
 考え方として、町家の庭の位置づけはどういうものなのでしょうか?

○尼崎博正
 人と自然の関係を市中の山居は引き継いでいると思います。
 市中の山居というのはお茶の理想的な空間です。お茶の空間は、お茶のためというより自然などの空間について深く思索する場所です。
 都市化が進む中で町民の有力者たちは都市とは何だと考え初めていたと思います。
 その中で市中の山居は人間・都市にとって必要不可欠なものであるという認識があったのではないでしょうか。
 
 ロドリゲスは「お茶を楽しみながら自然を思索する」と考えていましたが、それが町家に引き継がれたのではないでしょうか。
 日本の中世以降の都市論の中では、市中の山居が大きな存在だったと思います。

○新喜富雄
 京都市での調査では有名な茶室も対象としていました。
 楽しむ背景に不釣合いなものはないかということもやられてましたよね?

○尼崎博正
 スケールギャップの中で路地が求められたというのが市中の山居論。
 時代性としてスケールギャップが起こるのは当然ですが、だからこそ重要度が認識されてきました。

このまま街をつくっていったら人間がダメになると考えたのではないでしょうか。
 
○加藤先生
 外から眺めるというのと内から見るという話ですが、造形の中で庭全体を見下ろすような視点が想定されていたということなのでしょうか?

○尼崎博正
 庭そのものを俯瞰しながら、眺望施設としての二重の役割を担ったものがあったのではないかと思います。しかし、そう言いつつももう少し高い所に眺望する施設を設けているということとセットになってる場合が非常に多いので、どう整理するかが問題です。

○加藤先生
 ものを見たり、楽しんだりとか、もう一度外から眺めるという視点が造形の中にあったのではでしょうか?
 また、庭園の中で何を見ようとしていたのか。小川治兵衞の近代のものを機にそういう視点を調べて検証してみるのも面白いですね。

○尼崎博正
 証明をしたり、造形性と直接結びつけるのは難しいです。検証まではいかないです。
 
○荒木正亘
 小川治兵衞の所で、30年ぐらい前に建った家の横に杉がたくさん植えられたので山が見えなくなりました。針葉樹は一年中茂るので見えなくなってしまう。
比叡山の上に立派な家を建てて、斜面に針葉樹を植えたが手入れをしなくなって琵琶湖が見えなくなってしまったという話もある。
 
 庶民の借景は町家の庭に関係あるのですか?

○尼崎博正
 空を借景にするしかないとかいう話もありますが、庭の存在意義を整理していく中で借景でなくてもいいのですよ。昔の人が市中の山居を見出したように、我々が21世紀何を考え出せるかが課題です。

○大谷孝彦
 町家の庭にも借景の考えは抽象化されて取り込まれているとも思いますが、
 町家の庭屋さん(植木屋さん)は小川治兵衞と関係あるのでしょうか?

○尼崎博正
 時代の中で求めた場所に求めた造形空間を作ってきています。京都には無数の植木屋さんがいたでしょうし、どこにのっかるかで変わってきます。
 京都にも大きな庭はたくさんあったでしょうが、ほとんどなくなってしまった。小川治兵衞は残る場所に庭を作った。

○吉田秀雄
 奈良では借景という言葉はほとんどきかない。
 借景が問題なのは京都だけです。奈良は禅宗の寺院がない。
 京都は禅宗の寺院が山裾を占めていて、それが非常に大きいのではないかと思う。
 奈良にも庭はあるが借景は聞かない。奈良では借景の研究されているのでしょうか?

○尼崎博正
 聚光院など個別の庭園では調査しているが、奈良は少ないですね。
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