●2004年12月9日 第8回MKCRセミナー

発表者:森田 雅也 氏
      
関西学院大学文学部教授
       サブ・プロジェクトc4リーダー
題目:江戸時代における関西の海川交通と俳諧活動

日時:2004年12月9日(木)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    中央館(中央図書館棟)7階708教室(C-708)
 
発表要約

[T]はじめに

 江戸幕府は、その開幕(1600年)とともに江戸を中心とした交通網の整備に心血を注いだ。それ以前より、徳川家康は、関ヶ原の戦い(1600年)に勝利を得たあと、「伝馬の制度」、全国には宿場の設置をするが、これにはまだまだ軍事的利用の意味合いが強かった。それに対し、開幕以降推進された東海道など五街道の本格的な整備は物流的利用を企図していることは明らかであった。一里塚、街道の石敷きによる舗装、並木の植え付けなどは、この陸路を用いる人々の利便を考えてのことであったが、1635年に参勤交代を定めたあとは、通行量は飛躍的に伸び、街道を中心とした物資輸送は本格化する。各宿場の制度・機構も整備され、各宿場に常備すべき人足と馬も定められ、モノを運ぶ便宜はさらに向上していく。
 ところで、古来中国で「南船北馬」とされているように、地理的な条件によれば、交通手段に海川を用いた船のルートが存在することは、狭い日本でも同様である。特に瀬戸内海交通は、遣隋使、遣唐使の昔から独自の発達をし、人々の、モノの流通を支えてきたことは衆知のことである。
 中世において、南蛮貿易を中心に世界に勇躍していた自由都市堺は、織豊政権の登場によって、その自由な交易が徐々に制限されていく。豊臣秀吉の禁教政策、朱印制度などにより、世界に開かれた海の交易は衰退していく。その後の徳川家康の紅毛貿易路線、江戸幕府の鎖国政策は、堺から海を奪った。
 その一方で、米中心の租税制度を基盤とした江戸幕府のもとでは、米の大量輸送、米の売りさばきが必要となった。
 すでに豊臣秀吉政権の頃より、その集積地は大坂となっており、政治機構が江戸に移されても、経済拠点は変わらなかった。やがて、経済拠点も江戸へと移行していくが、少なくとも17世紀は日本の海川交通の拠点は大坂、そして関西にあった。
 今回の報告では、この関西の経済拠点に通じる海川交通ルートを確認し、そのルートが俳諧文化圏の拠点を結ぶルートと重なりを見せているのでないかという試論を展開した。詳細なる調査、研究は、これからのプロジェクトにおける課題として、現時点での試論というより私論の方向性を発表させていただいたといえる。途次の研究として、以下ご諒解いただきたい。

[U]関西の海川交通と河内木綿

 農耕を産業の中心にした時代において、関西における最大にして最高に肥沃な平野、河内平野は、多くの実りと繁栄をもたらした。さらに現在の東大阪付近の湿地が干拓され、田畑として利用される近世には、商都大坂を支える経済基盤となっていった。
 ところで、豊臣秀吉の天下人の野望の権化、文禄・慶長の朝鮮への侵略(1592・1597年)は、さまざまの悲劇を生んだことは言うまでもない。日本人はその軍事的な侵略に及んで初めて、我々より進んだ朝鮮文化の数々を目の当たりにした。出版技術、陶芸技術など最たるものであるが、優れた木綿種にめぐりあったことも大きい。
 河内には、試験的にこの朝鮮種の木綿が栽培された。在来種より、綿糸としての質がよく、やがて河内平野の朝鮮種木綿によって作られる綿布は、在来種のそれをはるかに凌駕することとなった。
 当時、木綿の肥料に最適とされたのは、干鰯である。近世初頭、和歌山沿岸の漁民たちは新しい、底引き網等の漁法を工夫し、鰯の収穫量を格段にふやしていった。その技術は、またたくまに関西の大阪湾、西宮浜などにも広がり、やがて、遠く千葉の九十九里浜、対馬、壱岐など全国にまで伝播した。
 この関西における干鰯の大量生産は、河内木綿の大量生産につながった。
 早速、この河内木綿に適した肥料である干鰯は、海を持たない河内の隅々までも、川を利用して配送されることとなった。
 その川が大和川である。この川を利用すれば、大坂湾を通じて日本全国につながる海の航路につながっていた。
 河内で生産された河内木綿の名は良質な綿布として、1650年頃には、日本全国に知れ渡るようになった。正確な数字を提示できないが、生産量もおそらく全国一であったと考えられる。
 河内平野の隅々から小舟で集められた木綿、あるいは綿布は、大坂で集積され、五百石クラスの船で全国へと出荷されていく。
 さらには、逆のルートで大坂から河内の隅々まで干鰯が届けられる。
 このルートは大和川の川運(せんうん)として、人、モノを交流させ、それに連なる人々を富裕にさせたことはいうまでもない。
 こうして、大和川の人々は実業家として、資本をふやしていくが、文化人として、文学にもかかわっていく。
 その典型的な例として大和川川運ルートのリーダーであり、大和川柏原の俳人のリーダーでもあった三田浄久をあげて、次々節で検討するが、その前に海川交通ルートと俳諧活動について、松尾芭蕉と蕉門の場合について同じような現象のあることを次節で論じたい。

[V]芭蕉と蕉門の俳諧活動

 有名な松尾芭蕉の『奥の細道』(1694年刊)は、元禄2(1689)年3月27日に江戸を出発して、8月下旬大垣に到着するまでの5ヶ月余り、行程600里に及ぶ旅を綴っている。詳しい旅程は【図1】に示している。

 芭蕉が旅の俳人であることは衆知のことであるが、その足跡は、俳諧活動そのものと言え、『奥の細道』以前にも『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』という旅の記があり【図2】、所用の旅を含めれば、いかに広範囲に旅した俳聖であったかがうかがえる。

 ところで、『奥の細道』が紀行文として、すばらしい文芸性を有することは言うまでもないが、芭蕉の旅の目的としては、蕉門の俳諧活動の一貫として、まだ見ぬ地方に俳諧の木を植えることも企図していたのではないかと推察する。むろん、そのような目的のもと、『奥の細道』が出来たと主張するものではない。むしろ、それは目的ではなく、みちのくの旅の行脚の結果とするべきであろう。
 しかし、いずれにせよ、芭蕉はこの旅で、地方の俳諧文化圏の拠点と接していることは確かである。そのことから、以下論じたい。
 芭蕉は、『奥の細道』の最初の目的地松島を見て、平泉も見て、東北地帯の内陸部にやってくる。地理的には、太平洋にも、日本海にも遠い「尾花沢ノ条」には、以下のように書く。

 尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富(とめ)るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知(しり)たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
 ここに登場する「清風」は鈴木道祐という名で、尾花沢の豪商である。江戸時代初期に開発された紅花染めの原料、紅花の流通業や貸し金業で財を成している。島田屋八右衛門とも称しており、芭蕉とは旧知の間柄であった。しばしば江戸と出羽とを往復しており、世間の事情にも精通していたといわれる。芭蕉の評価の高かった門人の一人であった。この時三十九歳。
 この辺鄙な地に豪商が生まれたというのも、紅花染めという技術によるが、彼はまた江戸や京都で俳諧を学ぶ文化人でもあった。
 これは、清風が流通業者として、最上川水系を利用し、酒田に出、西回り航路等で京都さらには江戸まで容易に訪れることができたからで、海川交通を利用した賜といえる。【図3】
 芭蕉は、さらに、同じく最上川水系の要衝、大石田にも立ち寄っている。「大石田・最上川ノ条」は以下である。
 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、蘆角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、ここに至れり。
 つまり、元来「古き俳諧の種」があった大石田が新旧の俳風に悩んでいたので、歌仙「一巻」を巻いたというのである。大石田は、当寺最上川舟下りの起点だったことを考えれば、その影響力は最上川水系の俳諧拠点に大きな影響をもった可能性は大きい。検証すべき課題である。
 近くの羽黒山、月山に逗留した芭蕉は、その地の俳人図司左吉(呂丸)に伴なわれて、日本海に向かう。「鶴岡・酒田ノ条」は以下である。
羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の港に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。
 近世初期、酒田は河村瑞賢によって最上川河口が整備され港が作られてから、西廻り船の港町として発展した。そこでも「俳諧一巻」を巻いたわけで、東北の海の拠点に橋頭堡を築いたわけである。
 この後芭蕉は、旅の目的地の一つ、象潟を訪れている。松島とともに楽しみにしていた景観の地を後にすると、一気に新潟を通り、北陸道を経て、敦賀に立ち寄っている。その景勝の地「種(いろ)の浜ノ条」は以下である。
……ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟をす。海上七里あり。天屋何某と云もの破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。
 ここに登場する「天屋何某」は、芭蕉の門人玄流、天屋五郎右衛門のことである。敦賀の廻船問屋の主人であった。彼もまた西回り航路の拠点をおさえており、芭蕉の文化拠点作りは着実であった。
 芭蕉は最後に大垣に立ち寄る。そこには、弟子たちがあるいは待ちかまえ、あるいは馳せ参じ、師との再会を喜ぶが、「大垣ノ条」は以下である。
露通も此みなとまで出(いで)むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけれて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集(いりあつま)る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
 ここで「長月六日」とあるが、『曽良随行日記』には、この日、午前八時頃船で出発し、「木因、馳走」とある。大垣に芭蕉が旅の終わりを大垣としたのは、諸般の検討から、俳友「木因」を訪ねるためであったことは明らかである。
 「木因」は、北村季吟の門に入り、芭蕉とは同門で友人であった。『野ざらし紀行』も「木因」訪問の目的も併せ持っていたといわれている。まさしく、貞享・元禄期の美濃俳壇発展の立役者は芭蕉の親友であった。
 その「木因」は大垣の廻船問屋の主人であった。やはり、美濃の川運交通をにぎる実業家が文化人として、尾張まで影響を及ぼした人物である。
 このように芭蕉を支えた人々が海川交通の担い手であったことを思えば、おのずから、海川交通の拠点は文化の拠点、俳諧の拠点であったと仮定できる。これを断定するには、いくつかの検証が必要であるので今後の課題であるが、あながち、結論は大きく異ならないと考えている。
 その確認の一つとして注目できるのは各務支考とその門流獅子門の俳諧活動である。芭蕉死後、蕉門は、都市俳諧の江戸座と田舎俳諧の美濃、伊勢派に分かれて発展するが、やがて美濃派は広く北九州までその勢力を伸ばしていく。

 【図4】は各務支考の旅路。【図5】は支考の弟子たち、獅子門の廬元坊・五竹坊・以哉坊の旅路である。その拠点作りは【図3】の「江戸時代主要廻船航路」と重なることがわかるのではなかろうか。もっとも、もっと詳しい検証を必要とすることは当然である。

[W]河内の俳人「三田浄久」の俳諧活動

 三田浄久(1608〜1688)は、本姓水野氏。本名庄左衛門浄久。父水野庄左衛門が大阪夏の陣で戦死の後、母姓三田を名乗り、町人となっている。河内の柏原に移住し、柏原船舶仲間を勤めるなどして家業隆盛を来すとともに、大和川の川運業者をはじめ、河内の豪農たちとの親交を深めた。俳諧では、松永貞徳の直弟で、同門の貞室・季吟・玖也らのほか、宗因、西鶴、惟中ら談林の俳士とも交遊が厚かった。河内俳壇の中心人物といってよい。
 また、三田浄久は、『河内鑑名所記』(1679)を著わしている。京都西村七郎兵衛刊。六巻六冊あるいは六巻八冊。季吟序。惟中跋。序題は「河内国名所鑑」、目録題は「河内名所記」、通称「河内鑑」。この書は、河内国最古の地誌で、書中の地名・名所・物産・伝説などにちなんだ諸家の発句・狂歌を多数収録している。
 本書の内容は、数年にわたる実地調査の結果の著作〈惟中跋〉で、山川・神社・仏閣・古跡に関する人文地理学書的な正確さを備えた地誌であると同時に、諸家の発句九五二句、狂歌二五四首を収載して、あたかも俳諧狂歌撰集をおもわせる文学的な地誌でもある。出句者は二六〇名。文体は古雅簡潔、談林派の作者は多いが、句風はなお貞門の古風をも残している。
 今田洋三氏によると、『河内鑑名所記』の意義は、二百六十人の詠者の住所一覧が巻末載せられていることである。彼らの出身地は近畿地方だけでなく、江戸や中国・九州地方にも広がっているが、そのうち河内の人は百十七人にものぼっている。今田氏はこの百十七人を地図上に貼り付けた。その図が【図6】である。

 今田氏は、この分布が大和川流域にうまくあてはまることから、そこに大和川水系を中心とした河内俳壇の形成を指摘された。さらに俳諧文化圏を支えた教養源として、貸本屋ルートを大和川に求めて論を展開されている。首肯できる手堅い研究として、高く評価すべきである。
 元来、河内俳壇は近世以前から文学の発展した地域であった。旧領主三好長慶・実休・冬康の三兄弟は「いづれも連歌の好士、器用人」(『天正慶長当代記』)と記されているが、領主にならい、連歌は庶民の間でも広がりを見せている。長慶の家臣で権勢家松永久秀もその中にあった。子は永種、孫こそは松永貞徳である。近世俳諧の最初の門流、貞門派の宗匠松永貞徳は三田浄久の師。河内出身者と貞門派のつながりはここから始まっているといえる。
 貞門派と拮抗した談林派の雄、西鶴の遺著『西鶴名残の友』巻二の二「神代の秤の家」は、三田浄久を主人公としている。
 内容は、貞門派の後継者貞室が柏原の三田家に遊んだ際のエピソードである。
 貞室が持参した楽器、琵琶のケースを河内の者たちが風雅をわからず、その形状から商用の天秤ケースの大きいものと理解し、「神代の秤」としたというものである。
 これは三田浄久を中心とした河内俳壇が貞門派の宗匠貞室を迎えるほど隆盛であり、本格的な活動を見せていたことを知るとともに、実業者俳壇の無風流を揶揄しているとも考えられる。
 しかし、いずれにしても大和川にはその川運拠点に俳人がおり、河内の産業を支えるとともに河内俳壇を支えていたことがわかるのである。

[X]おわりに

 はたして、「江戸時代における関西の海川交通と俳諧活動」という大きな題目の研究は、武庫川女子大学関西文化研究センターが推進する文部科学省学術フロンティア推進事業「関西圏の人間文化についての総合的研究」のプロジェクトの一つとして行われている。昔の人の営みを考察し、その中でどこまで当時の文化を研究することが可能か。私の研究テーマからはもっともふさわしい参加と思って感謝の思いはたえない。
 今回の発表は、プロジェクトの第一段階である。その途次の報告といえる。当日は、本稿に加えて河内・大和川の開発などまで論は及んだが、上記も含め、検証・研究の課題は山積みといえる。参考文献も後日の報告に正確を期すが、さらなる精査なる調査とデータ収集を行うことをは言うまでもない。
 以上を初年度の研究報告とし、結びとしたい。

《参考文献》

  • 『日本古典文学大辞典』(岩波書店)
  • 今田洋三著『江戸の本屋さん』(NHKブックス、1978年刊)
  • 『柏原町史』(1955年刊)
  • 小林茂・脇田修著『毎日放送文化双書4 大阪の生産と交通』(1973年刊)
  • 『上方芸文叢刊3 河内鑑名所記』(1980年刊)
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