●2004年11月30日 第7回MKCRセミナー

発表者:羽生 紀子 氏
      
武庫川女子大学専任講師
       サブ・プロジェクトc5リーダー
題目:上方浮世絵の周辺―出版都市大坂の魅力―

日時:2004年11月30日(火)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    中央館(中央図書館棟)7階708教室(C-708) 羽生氏
 
発表要約
上方浮世絵の周辺
―出版都市大坂の魅力―
羽生 紀子
はじめに
 浮世絵という印刷メディアは魅力のある研究対象である。私はこれまで江戸時代中期の出版文化を研究対象としてきた。学位論文では井原西鶴の浮世草子と出版メディアの関係を扱ったが、それは作品を才能ある作者ただ一人による生産物とみるのではなく、作者および読者や出版業者などの周囲との連携による総合的な生産物として把握しようとするものであった。
 現在取り組んでいる浮世絵は、浮世草子よりもさらに多くの人々とのダイレクトな関わりの中で生まれる印刷メディアであるといえる。享受者と出版業者の他に、モデルとなる人物が重要な役割を果たす。また彫り師や摺り師との関わりも重要であっただろう。さらに上方においては、役者絵の印刷に役者の贔屓連中の資金提供があった可能性もあり、それら素人たちの存在も視野に入れなければならない。浮世絵は最新の出版メディアでもあり、当時の文化状況を知るためには格好の研究対象なのである。
 今回の発表では、最近武庫川女子大学の所蔵となった上方浮世絵コレクションを紹介すると共に、上方浮世絵をめぐる文化事情の一端について考えてみたい。

流光斎の登場
 江戸での錦絵発生は明和2年(1765)が通説となっているが、上方において一枚刷りの錦絵が版行されたのはそれに遅れること約30年、寛政3年(1791)のことであった。
 松平進氏によると、上方浮世絵の展開は以下のような段階に分けることができるという(「上方浮世絵の流れ」『上方浮世絵の世界』p.82〜83)。
〔一枚摺り役者錦絵の史的展開〕
1 創始期 寛政3年(1791)〜文化9年(1812) 細判時代 流光斎如圭・松好斎半兵衛・狂画堂芦国
2 隆盛期 文化10年(1813)〜文政12年(1829) 大判時代 春好斎北洲・戯画堂芦ゆき、寿好堂よし国
3 爛熟期 天保1年(1830)〜天保13年(1842) 大判時代 丸丈斎国広、春梅斎北英、柳斎重春、長谷川貞信(初代)
4 復興期 弘化4年(1847)〜明治20年(1887)頃 中判時代 五粽亭広貞、一養亭芳滝、長谷川貞信(二代)
 武庫川女子大学が購入した浮世絵コレクションは流光斎如圭とその弟子松好斎半兵衛の作品であり、上方浮世絵の最初期の作品ということになる。
 上方浮世絵のほとんどは役者絵であるが、その登場までには役者絵本が行われていた。耳(に)鳥(ちよう)斎(さい)画『絵本水や空』(安永9年〈1780〉、京都八文字屋八左衛門刊)、勝川春章・岸文調画『絵本舞台扇』(明和7年〈1770〉。江戸で刊行)、『翠斧亭戯画譜』(天明2年〈1782〉刊。淡彩摺り)があり、続いて流光斎の役者絵本が現れた。流光斎は浮世絵の祖として名高いが、版本の挿絵も多く担当し、印刷メディアへの登場は版本挿絵が早い。流光斎作画の版本作品は以下のとおりである(一図のみの提供は含まない)。

【流光斎作画版本】
刊年 タイトル 冊数 備考
天明4年(1784)正月 旦生言語備 2冊 役者絵本
寛政2年(1790)初冬 絵本行潦 3冊 役者絵本
寛政6年(1794)正月 絵本花菖蒲 役者絵本
寛政8年(1796) 通者茶話太郎 5冊 鉄格子作
寛政12年(1800) 役者百人一衆化粧鏡 1冊
享和1(1801)−文化1年(1804) 絵本拾遺信長記 前編13編・後編10編
享和2年(1802) 劇場画史 2冊
享和3年(1803) 月氷奇縁 5冊 曲亭馬琴作
享和3年(1803) 絵本目出度候 2冊
文化1年(1804) 三都劇場草之種 1冊
文化2年(1805) 随一小謡魔訶大成 1冊 田宮仲宣編

 上方浮世絵を制作したのは、役者絵本を2点刊行した後である。その流光斎の浮世絵が、上方浮世絵(一枚刷り錦絵)の始まりということになる。
松平進氏による調査をもとに、流光斎の上方浮世絵を一覧にすると下記のようになる。

【流光斎の浮世絵一覧】

画材上演年 タイトル 作画者 判型 所蔵
1 寛政3年(1791)7月 (団七九郎兵衛 嵐雛助1) 無款 細判1枚 米国個人
2 寛政3年(1791)11月 桃井若狭之介 中山来介2 流光斎画 細判1枚 べレス氏
3 寛政3年(1791)12月 在原のなり平 芳沢いろは1 流光斎画 細判1枚 オランダ個人
4 寛政4年(1792)2月 (山口九郎次郎 浅尾為十郎1)
(このした東吉 市川団蔵4)
(小田春水 関三右衛門1)
流光斎画 大判1枚 個人
5 寛政4年(1792)閏2月 中の芝居「花洛清水夜開帳」沢村訥子3 無款 細判1枚 武庫女
6 寛政4年(1792)3月 (吉川おとはる)関三右衛門1 無款 細判1枚 個人
7 寛政4年(1792)9月 (唐橋作十郎)中山来助2 流光斎(花押) 細判1枚 ベルギー王立美術館
8 寛政4年(1792)11月 大森彦七 叶雛助1
栗木生左衛門 市川団蔵4
流光斎(花押) 細判1枚 米国アレン美術館
9 寛政5年(1793)正月 勝武革
(小倉豊前 市川団蔵4)
無款 細判1枚 早大演博
10 寛政5年(1793)正月 勝武革奴道成礎
山田僧都兵衛門・浅尾為十郎1
流光斎(花押) 細判1枚 個人
11 寛政5年(1793)正月 (ひがきのお大)叶雛助1
二ノ替リ新狂言
無款 細判1枚 べレス氏
12 寛政5年(1793)正月 やなきさくら
(奥方寝覚 山下金作2)
流光斎(花押) 細判1枚 シカゴ美術館
13 寛政5年(1793)正月 けいせい楊柳桜
栄ひだのかみ 山村儀右衛門2
流光斎(花押) 細判1枚 千葉市美術館
14 寛政5年(1793)正月 中の芝居「けいせい楊柳桜」
尾上新七1 芙雀
無款 細判1枚 武庫女・フィラデルフィア美術館
15 寛政5年(1793)正月 (1)淀や辰五郎 嵐三五郎2
(2)(傾城吾妻)芳沢いろは1
流光斎画 細判2枚続 (1)早大演博
(2)個人蔵
16 寛政5年(1793)2月 (秋塚帯刀)叶雛助1 流光斎(花押) 細判1枚 米国個人蔵
17 寛政5年(1793)3月 角の芝居「平井権八吉原衢」
おはや 花桐四声(豊松3)
無款 細判1枚 武庫女
18 寛政5年(1793)9月 角の芝居「太平記菊水之巻」
石堂かげゆ 浅尾為十郎1
無款 細判1枚 武庫女
19 寛政5年(1793)9月 角の芝居「太平記菊水之巻」
三蔦 花桐豊松
無款 細判1枚 武庫女
20 寛政5年(1793)11月 角の芝居「伊賀越乗掛合羽」
(石留武助)姉川新四郎3 一幸
無款 細判1枚(3枚続のうち) 武庫女
21 寛政5年(1793)11月 (1)(夕霧)中村のしほ 蘭耕
(2)(伊左衛門)泉川楯蔵 化龍
無款 細判2枚続 (1)ヴィクトリア・アルバート博物館
(2)武庫女・池田文庫
22 寛政6年(1794)4月 菅相丞 嵐三五郎2 無款 細判1枚 『浮世絵大成』9
23 寛政6年(1794)4月 桜丸女房八重 芳沢巴紅(いろは1) 流光斎 細判1枚 大久保忠国氏
24 寛政7年(1795)4月 (大星由良之助)市川市紅(団蔵4) 無款 細判1枚 米国個人
25 寛政10年(1798)3月 天満芝居「ひらかな盛衰記」
梅かえ 芳沢巴紅
梶原源太 嵐来芝
無款 細判2枚続 武庫女
26 未考証 浅尾為十郎1 流光斎(花押) 細判1枚 『歌舞伎絵大成・寛政期』
27 未考証 市川団蔵4 流光斎 細判1枚 個人
28 未考証 浅尾為十郎1 流光斎(花押) 細判1枚 シカゴ美術館
29 未考証 市川団蔵4 市江 無款 細判1枚 鬼洞文庫
30 未考証 中村乃しほ 蘭耕 流光斎 細判1枚 個人
31 未考証(校合摺) (時平?)叶a獅(雛助1) 無款 細判1枚 個人
32 未考証(校合摺) 嵐吉三郎2 里環 無款 細判1枚 個人
33 未考証(校合摺) 姉川新四郎3 無款 細判1枚 個人

【武庫川女子大学所蔵流光斎作品】

5.沢村訥子

14.尾上新七

17.花桐四声

18.浅尾為十郎

19.花桐豊松

20.姉川新四郎

25. 芳沢巴紅/嵐来芝

流光斎と狂歌
 以上のように、寛政期を中心に活躍をみせた流光斎であるが、その閲歴はさほど知られていない。生年は未詳、文化6、7年頃(1809、1810)に没しているとされる(『日本古典文学大辞典』)。寛政2年(1790)刊『浪華郷友録』に、

多賀如圭号 流光斎/北堀江四丁メ
生没年、墓所等不明。
とあり、北堀江4丁目に住したことが知られる。
 画系については安政元年(1854)刊の一枚摺り『画法系譜』に蔀関月門として載る。
流光斎、多賀氏、名如圭、大阪住。関月ヲ師トシ、後変ジテ俳優肖面ノ祖トナル。真ニオシムベシ、文化年中ニ没。男曰子建、号朴仙ト。和人物ヲ善クス。
 このように、流光斎その人について明らかなことはごくわずかであったが、近年流光斎と狂歌との関わりが明らかになってきた。そもそも流光斎作品の初出(ただし版本)として確認されているのは『狂歌ならひの岡』(仙果亭嘉栗撰、安永6年〈1777〉刊)に載る一図とされており(松平進「錦絵の誕生」『上方浮世絵の再発見』110頁)、狂歌と関わるものであった。これまでに確認した狂歌は『除元狂歌集』(天明5(1785)刊))に載る次の2首である。
【流光斎の狂歌】
  (1)予は平生彷彿たる人物を画けは 流光齋士峯
    また筆は取らねとも先ツ若水の桶に我顔今朝うつし始
  (2) いとなみによりて 多賀士峯
    夜もろくにねんきよく扇仕込む迚夏よりもけくいそか師走は
 残念ながら、ここに挙げた流光斎多賀士峯が上方浮世絵の祖流光斎多賀如圭と同一人物である確証はない。流光斎と名乗った絵師には他に「子健」がおり、『伝奇作書』によると如圭の兄、『画法系譜』によると弟で朴仙と号したという。「士峯」が「如圭」と同一人物であるという証明は現在のところなしえないが、狂歌および前書きの内容、また活動時期とも齟齬がないので、両者は同一人物であると考えておく。
 1首目は天明5年の歳旦吟である。新年に顔を洗うために身をかがめた時の自然の状況を、自己の生業と結びつけて、ウィットに富んだ狂歌としてまとめている。
 流光斎は天明4年(1784)正月刊行の『旦生言語備(やくしゃものいわい)』ですでに世に示す形で役者似顔絵師としての活動を始めている。この「似顔」も、役者似顔絵であったと考えて良いだろう。
 2首目は「夜もろくに寝ない」「年玉扇」をかけている。また、扇は夏に使うためのものであるが、「年玉扇」としての需要があるため、12月の方がかえって忙しいのだ、という、季節感のギャップに面白みがある。天明4年の歳暮吟であるが、現在役者絵師として知られる流光斎が扇制作を「いとなみ」として認識していたことがわかる。扇と役者似顔絵との関係、またそれに関わる流光斎の活動については、従来「大坂駄賃馬」(天明3年〈1783〉序)の次の記事によって知られていた。
 去年春頃より、役者顔似せ扇はやりける。此画工は流光斎と号し、北堀江亀井橋の住人なるよし。役者の面を似せらるゝ其妙なる事、譬ふるに物なし。
天明2年(1782)春頃から役者似顔絵の扇が流行していたことが述べられており、上方の役者似顔絵がこの当時扇と関わるものであったことが示されている。流光斎は『旦生言語備』で役者絵本を制作し、それは天明4年正月に刊行されてはいたものの、同年暮れの狂歌からは、自身は依然として役者似顔絵扇の制作を「いとなみ」と認識していたということがわかる。
このようにたった2首に過ぎない流光斎の狂歌であるが、内容的にはこれまで周辺資料によって明らかにされていた上方役者絵をめぐる事情を流光斎自身が述べたものであった。
 流光斎の狂歌が収録されている『除元狂歌集』は丸派という狂歌集団の狂歌集である。丸派は玉雲斎貞右(混沌軒国丸、享保19年〈1734〉〜寛政2年〈1790〉)とその門人によって形成された一派で、「天明年間には門人千五百人を有」(狩野快庵編『狂歌人名辞書』広田書店、1928年)するほどに盛んな活動をみせた。貞右没後も、その門人によって丸派狂歌サークルは維持され、盛んな文芸活動を展開したのであった。流光斎がなぜ丸派狂歌に参加したのか、あるいはどの狂歌師と特に交流をもっていたのかなど、具体的な活動は現時点では明らかにはならない。
 ただし流光斎が後に役者絵師として活動することを考え合わせると、丸派との関わりは流光斎にとって非常に重要なものであったといえる。

丸派に参加した人々
 丸派にはさまざまな階層の人々が参加しており、絵師や歌舞伎役者の参加も確認できる。以下に一例を示す。

【絵師】
竹原春朝斎・・・信繁、生年未詳〜寛政12年(1800)?。『都名所図会』を始め、数多くの版本の挿絵を描いたことで著名な絵師。
丹羽桃渓・・・宝暦10年(1760)〜文政5年(1822)。版本の挿絵や一枚摺を多数制作。
【歌舞伎役者】
初代嵐璃寛(明和6年〈1769〉〜文政4年〈1821〉)・・・含章堂前田梨冠、後に梨丸、金橘楼璃寛
中村友三・・・狂名「桃三」。
沢村国太郎(初代)・・・「海老丸」。
【狂言作者】
浜松歌国
【著作者】
暁鐘成・・・「恋丸」。
 さらに丸派狂歌師の中には役者の贔屓として知られる人物がいた。上方浮世絵(役者絵)の特徴に「ひいき連中」の存在がある。芝居や役者を熱烈に支援するひいきとその集団は江戸・京都にも存在したが、大坂のそれは特にその熱烈さにおいて有名であった。上方役者絵の成立にもこのひいき連中は大きな役割を果たしたと考えられ、役者絵の中にひいきが描き込まれているものもある。
 流光斎が後に多色刷り役者絵を制作するようになる具体的契機の一つとして、丸派狂歌サークルが機能していたと考えられるのである。

「出版都市大坂」の魅力
 上方の文化が創り出されるにあたり、丸派狂歌サークルにみられたような文化サークルは大きな役割を果たしたといえる。さまざまな階層、異業種の人々が交わるサークル−あるいはサロン−で新しい文化が生み出されていた。それが大きなエネルギーとなって、都市の魅力となっていたと考えられる。
少し時代が下るが、『浪花雑誌 街(ちまた)能(の)噂(うわさ)』(平(へい)亭(てい)銀(ぎん)鶏(けい)著。初編4冊・2編2冊)にはそのような上方、特に大坂のいきいきとした都市としての魅力が活写されている。
摂津国大坂(せつつのくにおほさか)ハ古より入津集会(にふしんしふくわい)の地にして南に海浜を受。北に山をかまへ。寒暑程(ほど)能(よく)来りて風俗至つて実義ある上国なり。されば人気(じんき)もいとおだやかにして諂(へつら)ふことなく。諸国運送のいとまには風流の道に心を寄(よす)る人いと沢なるゆゑ。国々よく入込処の漫遊家もひとたび此地に遊ぶときは。思ハず足を留(とゞむ)る者昔より今に至る迄其かず挙(あげ)てかぞへがたし。夫(そが)のみならず市中(ちまた)の美麗(びれい)家作(やづくり)のありさま。他国の及ぶ処にあらず。実に是(これ)繁栄(はんえい)他郷(たきやう)にならびなき大都会の名地なり。(巻之1発端)
 江戸時代の「大坂」が繁栄した土地であるというのは我々の共通認識であると思う。ポイントは、傍線部のように、非常に文化的に高い水準を保っていたところである。単なる商業都市ではなく、その金銭的な実力を背景に、豊かな文化が醸成され、数多くの漫遊家―文人―を惹きつけていた。上方には丸派狂歌サークルにみられるような文人サークルが数多く存在したが、それは閉じられた世界ではなく、外部からの来訪者に対して開かれたものであったようだ。
 その場合に注目すべきは、それらのサークルが出版というメディアを自分たちのものにしていた点である。狂歌本や上方役者絵の出版にみられるように、彼らの活動には出版との密接な関わりがあった。そのような出版との密接な関係が、巻之二に描写されている。
……〔千長〕なるほど本屋の沢山ある処を通ツて来やした。モシ大壮な書林(ほんや)でござりヤスネ。江戸にハ却てあのやうにべたべたと本屋の軒をならべて居る処ハござりヤせん。〔鶴人〕さやうさ。江戸でハ先(まづ)通(とほり)町(てう)筋(すじ)から芝の神明(しんめい)町(てい)だがこれも所々でござりヤス。一町(いつてう)に四五軒ともある処ハござりヤスめい。〔萬松〕日本橋(にほんばし)の四ツ日市にハよほどありやすが。是ハ皆(みん)な干店(ほしみせ)でござりヤス。〔鶴人〕さやうさやう、江戸橋から四ツ日市へ出る処に餘(よ)ほど見(みえ)やすが。なるほどあれハ持出しと見えヤス。心斎橋筋ハ五六町ばかりが内に。四五十軒もありや正。私がおぼえて居(いる)書林ばかりも此位ござりヤス。…〔千長〕…なるほど大壮でござりヤス。僅(わづか)五六丁の間に。此位書肆(ほんや)のある処は何方(どこ)にもありやすめい。〔鶴人〕是にて文華の盛(さかん)なることを知るべしでござりヤス。実に大都会の地でありヤス。マア段々居(ゐ)なじんで御覧(ごらつ)じやし。餘(よ)ほど住(すみ)いひ処でござりヤス。殊に此辺に居やしてハ。江戸の日本橋(につほんばし)辺(へん)とおなじことでござりヤスカラ。何でも居て居てことが足りヤス。…銭金ハふんだんな土地といふものでありやすから。鳥渡(ちよつと)見物に来やした人も。長居を仕たり。又ハ世帯を持て。行々(ずるずる)然(べつたり)に大阪者になツた人も幾等(いくら)もありやす私なども今年は帰らふ来年ハ行ふと思ツて居やすうちに早八年居(おり)やす其内には段々知音(こんい)が出来。今では迚も帰られやせん。
 江戸には「干店」「持出し」の店は多いが、大坂のように数多くの「書肆(ほんや)」が並んでいるところはないという。文脈からすると、「干店」「持出し」の店は出版を行わない、販売業専業の本屋で、それに対して大坂の立ち並んでいる「書肆」は出版から販売までを行う総合的出版業者であると判断できる。
 都市としての発展、文化の創造にはメディアとの結びつきが重要である。その時代の最先端のメディアと結びつくことにより、その地で創造された文化が発信されるのである。江戸時代の上方−大坂−にはまさにそれがあった。江戸時代における最新のメディアである出版メディアの中心地としての魅力にあふれていた。そして出版メディアを支えるのは制作者(作者や出版業者)、享受者(読者)であるが、それらの人々がサークルやサロンを形成し、豊かな交遊を育んでいたのである。
 そして忘れてはならないのは、このような出版都市としての魅力にあふれた大坂に、多くの人々が引き寄せられていたことである。いろいろな地の人々が集まり、サロン、サークルにそれらの人々が関わることによって文化が創り出されていた。一種の異文化交流が行われることによって、普遍性をもち活力にあふれた魅力的な文化が創出されていたのである。

〔参考文献〕
  • 諏訪春雄『視覚革命 浮世絵』勉誠出版、2003年
  • 日本経済新聞大阪本社事業部編『上方浮世絵200年展』1975年
  • 羽生紀子「嵐璃寛と丸派狂歌―「月並の雅莚」への参加―」『鳴尾説林』11号、2003年12月
  • 羽生紀子「流光斎・春朝斎・桃渓と狂歌―丸派狂歌サークルへの参加―」『武庫川国文』63号、2004年3月
  • 春山武松「流光斎と松好斎(難波錦絵の研究)」『東洋美術』12、1931年7月
  • 松平進『上方浮世絵の再発見』講談社、1999年
  • 松平進『上方浮世絵の世界』和泉書院、2000年
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