●2004年11月11日 第6回MKCRセミナー

発表者:蒋 海波氏syou-sensei
      
兵庫県立大学非常勤講師
題目:大阪華僑張友深に関する基礎的研究
日時:2004年11月11日(木)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    中央館(中央図書館棟)7階708教室(C-708)
 
発表要約
大阪華僑張友深に関する基礎的研究
蒋 海波(兵庫県立大学非常勤講師)

張友深の略歴

 張友深(1876〜1946)は中国安徽省徽州府歙県に生まれた華僑で、大阪華僑社会のリーダーの一人であった。父張国英(またの名は政和)は1869年6月長崎に赴き、「泰記号」商人として籍牌(上等)を登録し、新地26番地にて「順記号」を営み、長江中下流域地域出身者の団体である三江会所の董事(理事)を務めた。1883年11月、興福寺内にある三江会所を改修した際、張政和は推進者の一人として、重要な役割を果たした。日本人の母・上田美代が張家の郷里で友深を出産、側室「田氏」として認められている。
 日清戦争後、張友深は長崎から神戸に移り、浙江省出身の先輩孫淦が経営する益源号で見習い、後に東源号(店主は李光泰)大阪支店の経理となった。1908年8月、中国湖北省の旱魃・水害を救済するために義捐金を拠出し、その功績が表彰され、挙人の資格を得た。同年、大阪川口町28番で海運業を営む同益合資会社を創立した。
 義和団事件後、清朝政府が「新政」の一環として、海外華僑に対して、国内と同様に商民組織を作るよう勧めた。1910年5月、大阪中華商務総会が創立され、張友深は怡昌震号主として副会長(協理)に推される。なお、大阪中華商務総会は1918年9月、大阪中華商務総会が大阪中華総商会に改称され、さらに翌1919年6月、大阪中華総商会の新館落成(本田三番町)とともに、三江公所は大阪中華南幇商業公所に改称し、社団法人となり、張友深がその初代理事長に推された。
 1911年10月、辛亥革命が勃発し、翌1912年元旦、中華民国が成立した。1913年2月、中華民国初代臨時大総統孫文を迎えるために、日本各地の留学生や華僑が国民党の組織を作り、張友深が大阪支部長に選ばれた。3月、孫文の来阪を迎えた。一方、張友深は神戸の華僑社会や財界とも密接な関係をもち、神戸日支実業協会の創立(1917年2月)パーティーに、大阪中華商会会長として出席し、6月、神戸三江公所理事に選ばれるた。また個人生活においても、その頃から、住居を豊中に移り、豊中教会(日本メソヂスト教団)の礼拝に出席し、入信はしなかったが、基督教のよき理解者としてクリスチャン的な生活を送った。
 1920年4月、運送及び貿易、仲介代理業などを営む同益株式会社が資本金10万円で設立された。張友深はその筆頭株主として、経営の責任者となった。同益社には阪神華僑のほか、日本人投資家も多く参画し、大阪における日中貿易の総合商社の一つとなった。1926年、同益会社はその信用が認められ、神戸海上火災保険会社と特約を結び、華僑商社の保険代理店となった。7月、安徽省の実業家呉興周の呼びかけにより、蕪湖市にマッチ工場「大昌火柴有限公司」が設立された。張友深は実弟張亮功の名義で出資し、国内の新興産業に積極的に参与した。
 1920年代、張友深は大阪華僑のリーダーとして、様々な社会活動にその名を連ねるようになった。1922年7月、中国農商部より大阪中華総商会会長に任命された。1924年2月、大阪で「中日協会」が成立、副会長に推された。5月、華僑子弟の教養を向上させる目的で大阪中華書報社(会員61名)が設立され、張友深はその社長に就任した。6月、神戸で開かれた「亜細亜人同盟時事問題大演説会」で講演を行った。9月、北京で開催された中華民国農商部主催の「実業代表会議」に出席した。1925年8月、張友深は日本の国勢調査員、失業統計調査員として内閣より任命された。1926年12月、「大阪華僑中日通商旧約廃止後援会」の総務も務めた。そのほか、神阪華僑教育統一協会副会長(1927年1月)や、神戸三江公所理事(同6月)にも選ばれ、1930年9月、張友深は大阪華商商会会長として華僑子弟の学校大阪振華小学校の開校式に出席した。
 しかし、1931年秋、張友深が大きな打撃を受けた。同益株式会社神戸支店長方某が起こした不祥事であった。当事者の支店長は、資金を巻き上げ、中国へ逃げさった。そのため、神戸支店は閉店し、張友深が阪神の華僑社会、財界に対して、謝罪の声明を公表して、事態の収拾に苦心奮闘したが、ついに華商が保険業界から全面撤退の結果を招いた。
 1937年7月、盧溝橋事変により、日本が中国への全面侵略に突入した。翌1938年2月、中華民国駐神戸兼大阪総領事館が閉鎖し、華僑の中国との交流が途絶えた。日本の政策のもとで華僑組織の再編が進められた。同年10月、中日協会が「関西日華協会」に改称、張友深が副会長に推された。11月、中華民国政府から離脱の意味で、大阪中華総商会は新たに設立された。1940年4月、汪精衛の南京で傀儡政権の樹立を祝う「国民政府還都記念大会」が大阪中華総商会の「主催」で開催された。
 1945年3月14日、益泰号を含めて、川口町にある華僑商社のほとんどが空襲で全焼した。終戦後わずか一ヶ月後の9月15日、張友深の呼びかけで大阪華僑総会が設立され、華僑社会の建て直すが図られた。1946年3月25日、張友深は死去、享年71才であった。

張友深関係文書

 最近、張友深に関する文書資料は遺族によって提供され、写真や帳簿、書簡、公式文書など、約180点がある。華僑の手による一次史料の不足の中、奇跡的に保存されている文書資料は張友深およびその商社の歴史や、戦前大阪華僑の歴史を研究するうえ、きわめて重要な資料である。これらの資料は個別に保存されているが、全体としては分類・整理されていない。ほとんどの資料は手書きの中国語で作られている。現在、筆者がこれらの資料を分類・整理している。現時点では以下のように確認できる。
 個人関係(26点)。張友深の個人的な身分や活動、社会的地位を示す資料。そのうち、張友深が科挙の位階を「捐」による得た証明書(1909年)や、日本同仁会病院(総裁は大隈重信)からの感謝状(1910年)、中国駐日公使館からの借用書(1921年)、中国農商部からの委任状(1922年)、日本滞在の「滞邦許可書」(1945年)などが含まれている。
 写真(19点)。青年時代の張友深の肖像写真(推定1906年)をはじめ、大阪川口の中国人の集合写真(推定1911年)や、「中華民国国民政府還都記念慶祝大会」の写真集(1940年)、台湾省華僑聯合会成立大会(1946年)などがある。
 「正祥元」関係(5点)。「正祥元」は安徽商人が上海で作った合資商社で、主な取扱う商品は茶である。張友深が出資者の一人として、この商社の経営に関与した。文書の中に、「議単」(設立趣旨書)(1908年)、株の譲渡書(1925年)、決算表(1933年)などがある。
 同益社関係(53点)。同益社は、1920年に設立され、張友深が社長を務めた保険代理店である。1945年終戦まで、同益社は神戸海上保険株式会社と特約を結び、阪神地域と華中、華南地域との交易に重要な役割を果たした。現存の同社の株主表、発起人表など創設に関する資料(1920年)や、神戸支店の不祥事(1931−32年)に関する一連の資料はほかに類を見ないきわめて貴重なものである。
 大昌火柴公司関係(7点)。大昌火柴公司は、1920年安徽省蕪湖市に創設されたマッチ工場で、張友深も大昌公司の株主としてその経営に携わった。大昌公司創立時の章程(1920年)や、大昌火柴公司と大中華火柴公司の合併についての議定書草案(1931年)が残され、華僑と中国国内の新興産業との関わりや中国国内産業の再編について、貴重な資料である。
 そのほか、日本での招待状や公式委任状(12点)、中国での招待状(27点)、大阪中華南幇公所の帳簿(4点)、張友深個人の会社「益泰号」の帳簿(13点)、「永和洋行」の収支表(10点)、地図(12点)などがある。
 これらの資料の整理と分析によって、張友深個人に関する研究はもちろん、大阪華僑の歴史、日本における三江幇の歴史など、日本華僑史研究の空白を埋めることが期待される。

中国・日本のマッチ産業と日本華僑

 中国・日本のマッチ産業には、阪神華僑の活躍が不可欠であった。
 1876年、清水誠が東京本所柳原に新燧社を創設し、翌1877年9月、新燧社がマッチを上海へ輸出を試みたことに象徴されているように、日本のマッチ産業はその草創期から、中国に市場を求める性格をもつものであった。1880年6月、瀧川辨三らが神戸湊町四丁目に清燧社を、井上貞次郎が大阪西区本田町三番町に公益社を創設し、神戸・大阪のマッチ産業を押し上げた。マッチ製造への直接参入が認められていない華商は日本の製造業者に対して、融資を行うと共に、マッチを買い上げ、香港、上海など各地に輸出した。1889年、日本のマッチ輸出額はついに百万円台に達成し、そのうち、96.2%は中国・香港向けに輸出された。1900年の報告では、神戸における燐寸貿易に携わる外国籍商社23社のうち、華商は12社に達した。1902年の調査では、中国の商社23社がマッチの輸出を取扱い、総額は2,660,538円に達した。
 しかし、1910年代からは、華南をはじめ、中国のマッチ工場が次々と創設され、1921年には、中国の燐寸工場は87に達した。そして、中日関係の摩擦による日本製品の排除運動は日本のマッチ輸出業に大きな打撃を与えた。1917年、東洋燐寸株式会社が中国の青島と済南に、東亜燐寸株式会社が天津と奉天に工場を設立し、現地生産を展開した。1920年代からは、中国の実業家劉鴻生が蘇州、上海で大中華火柴公司を創設し、長江中下流地域に一大マッチトラストを構築しようとした。一方、1927年、日本ではスエーデン燐寸の資本を受け入れる大同燐寸株式会社が神戸で創設され、有力華商同孚泰が燐寸販売権をスエーデン燐寸に譲渡し、在日華商がマッチ貿易から撤退した。1929年の大恐慌、さらに1931年の満州事変をへて、日本の中国へのマッチ輸出は、衰退の一途に辿った。
 張友深関係文書には、大中華火柴公司と大昌火柴公司との合併に関連する史料が残されており、日本華僑と中・日のマッチ産業の関わりの一側面を反映する貴重なものである。
 1920年7月、地元有力実業家呉興周は張友深の実弟張亮功らの賛同をえて、安徽省における二番目のマッチ工場「大昌火柴公司」を蕪湖市で創設した。創立当初制定された章程(定款)、細則、初年度の収支決算書のほか、同益社の投資残高などが残されており、その多額な出資はこの工場を支えたことがわかった。しかし、この出資は後に中国で起こった日貨排除運動のなかで、「日本の資金」として排除の対象となり、経営を苦しめた一因でもあった。1931年2月に、大昌火柴公司が劉鴻生企業の一つである大中華火柴公司の合併攻勢に遭い、「借用」について、交渉に応じざるを得なかった。この年の夏から秋にかけて、中国長江中下流域は大水害に見舞われ、大昌火柴公司は操業不能に陥った。9月、満州事変が勃発によって、中国国内の反日感情が高まり、大昌火柴公司が同益社の資金を排除して、再起を試みたが、ついに大中華火柴公司に「借用」された。日中戦争勃発後、蕪湖の陥落(1937年年末)により大昌火柴公司は完全休業に追い込まれた。
 大中華火柴公司はその後、華中地区のマッチ工場を次々と手中に収めた。1935年、劉鴻生は在華の日系マッチ企業を含めて、生産と販売を統制することを企て、在神華商陳伯藩を通じて、瀧川儀作との交渉を進めた。1936年、中華全国火柴産銷聯営社が創立され、中国国内におけるマッチ生産の過剰を規制するようとしたが、国内業者の反対や、日中戦争の勃発などによって、統制はその実効が失った。1941年、劉鴻生は国民政府とともに西南地区の四川省へ工場を移り、生産を維持した。上海では、在来の企業は火柴廠業公会を創立するなど、日本統治下での生き残りを謀った。一方、山東省出身の大阪華僑リーダーの一人叢良弼が1914年に山東省済南、青島などで振業火柴公司を創設し、日本のマッチ工場、大中華火柴公司と連携あるいは競争を繰り広げた。張友深も振業火柴公司の株を購入し、その経営に参与した。
 このように日本華僑が中・日のマッチ産業において、双方の交流と振興を促進した役割を果たした側面と、日中関係の悪化による日本製品排除運動に困惑させられた側面との実態を、張友深関係文書の中から、読みとれることができる。なお、張友深関係文書のなかに、同益会社、大阪華僑社会に関する史料が多数含まれているが、このらの分析については別稿に譲りたい。
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