●2004年10月19日 第5回MKCRセミナー

発表者:天畠 秀秋氏
      
武庫川女子大学関西文化研究センター客員研究員
       サブ・プロジェクトe1メンバー
題目:京都とソウル−風水思想と歴史的都市の囲繞区間−
日時:2004年10月19日(火)17時〜18時30分天畠氏
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    中央館(中央図書館棟)7階708教室(C-708)
発表要約
京都とソウル
−風水思想と歴史的都市の囲繞区間−
天畠 秀秋
1.はじめに
 近年の環境破壊やもはや当たり前のように取り扱われいる中で一向になくなる気配はない。これには根本的に日本人の自然観自体が変質してしまったことが原因ではないだろうか。利便性や経済性を追求していった為に生活には不自由はなくなったのかも知れない。しかし、その代わりに失ったものもたくさんあるように思われる。建築を設計する場合においても、敷地の中だけの話で完結してしまっているものが多いように思う。結局どこに建てても良いようなものしか建たないから、もともとその場所の持っていた個性や意味は薄れていく一方である。これは大変危惧すべきことである。もっと全体的な視野にたったその場所のもつ意味をもった計画が必要なのではないだろか。
 東洋における自然との調和の思想ともいえるものに風水思想がある。風水思想では、山に囲われた地形を理想的な場所としているが、これの良いところは周囲の山から自分のいる場所の意味づけを行い、その意味の中で人間が暮らしていることである。囲われたということは人間が安らかに暮らす上で最も重要な空間的要素の一つである。風水思想の思想が現代の抱えている問題に対して示唆することは大きいと考えられる。
 風水思想に関しては風水の理想モデルの図式やその一般性、また風水を取り巻く風俗などに関しては様々な視点から研究が進められている。しかし、風水思想の原理と実際の地形への適応に関して論じる場合に、地図上での概念的な解釈が多く、内部空間や風景との関係を視覚的な観点から論じているものは少ない。今回は、京都とソウルを実際の例として風水思想の原理と実際の場所の空間や風景に関する考察を発表したい。京都に関してはまだ十分な研究が進められておらず話題提供のような形になることはご了解頂きたい。
 風水思想におけるに吉地については、「背山臨水」、「山河襟帯」、「蔵風得水」、「四神相応」、「三方を山に囲まれ一方が開けているような地形で、かつ開かれた平地には川や池など「水」を湛えうるような地形」、「周りを山が取り囲んでいて、南が開けている」などのように表現されているものである。
 ここではその代表例として、村山智順『朝鮮の風水』による風水思想における吉地を示す。この吉地は都市・集落・民家・お墓のあらゆる尺度にまで適用される。「穴」は一番生気が凝縮した場所とされ、都市であればその中枢になるものが置かれる場所となる。お墓であれば遺骨の安置される場所となる。穴の背後に背負う山を「主山」、穴から離れたところにあり主山につながる雄大な山を「祖山」という。風水思想では山脈のつらなりを龍脈といい、主山がどこからつながって来ているかを重要視し、その場所の意味づけを行う。中国では全ての山の祖は崑崙山とされ、崑崙山からの大きな三つの幹龍(北幹龍・中幹龍・南幹龍)から枝分かれしてそれぞれの都市・集落の主山にまでつながっていると考えられる(図2)。朝鮮半島の場合は、崑崙山からの気が北幹龍を通って白頭山に一回集まると考えられており、白頭山が祖山のように位置付けられている(図3)。穴の前方に広がる平地を「明堂」という。都市であれば市街地が広がる場所になる。穴の前方に臨む山を「案山」、穴の前方遠くの山を「朝山」という。穴は主山からの支脈である砂(周囲の山々)に取り囲まれている。このモデルには祖宗山-主山-穴-明堂-案山-朝山の軸が存在し、それに伴う坐向(図1でいえば下向き)があるのが特徴的である。

(図1 風水思想における吉地 [村山智順『朝鮮の風水』より])

図2 『三才図会』による三大幹龍 [『風水都市』より])

図3 大東輿全図[『気の中国文化』より)

2.京都とソウルの概要

 京都とソウルの地勢図を図4に示す。
 「平安京は四神相応の地である」と言われているのを聞いたことがある方は多いと思う。後ろ三方を山に囲われ、南方が開けた地形構造をそのように表現する。日本の文献では平安京遷都当時に「風水」という言葉自体は見つけることができないが、「風水」の別称である「陰陽」という言葉は見付けることができる。遷都の際には陰陽官僚が活躍したと言われている。「四神相応」の概念自体は風水思想の原理の中にも見つけることができる。平安京(794)が風水思想に基づいたものであることの明確な根拠はないものの、風水思想と無関係であるとも考えられない。
 一方、ソウルは李氏朝鮮の遷都当時(1392年)、風水思想的な解釈が用いられたと言われる都市である。地形図上では京都ほど山に囲われた印象はなく、東側と南西が開けている。朝鮮総督府時代の日帝断脈説など、風水思想にまつわる逸話も多く風水思想との関係も深い都市である。

(図4 京都とソウルの地勢図 海抜50m以上の地域から着色をしている。黄色の部分は600以上の地点を示す。)

3.京都

 平安京は794年に桓武天皇が遷都した都である。南北で5.7km、東西で4.7kmの大きさであったと言われる。遷都の際には以下のような詔が出されている。

「此地や山河襟帯の形成、四神擁護の霊地にして帝王の都を定むるに適良す。」「此国は山河襟帯にして自然に城をなす。斯の形勝に因り新号を制すべし。宜しく山背国を改めて山城国と為す。子来の民、謳歌の輩、異口同辞、号して平安京という。」

 上記にある山河襟帯・四神擁護は風水思想の原理に通ずる言葉である。このことが平安京遷都を風水思想と結びつけて考える拠り所となっている。風水という言葉自体はこの当時の日本の文献には見られない。
 平安京遷都当時は、現在の千本丸太の交差点付近に大極殿があったといわれる。船岡山を基準とし、南方の甘南備山と結んだ南北の軸線が当時の朱雀大路であった。東の大文字山と西の西山を結んで東西軸が決められ、その交点を基準として大極殿が定められたとも言われる。黄永融はこのように山を基準とした十字軸をもつ都市計画は風水思想の天心十道の原理に通ずるとし、平安京は風水思想に基づくものだと述べている(図5)。
 船岡山から南方を見た写真を図6に示す。南方の甘南備山は大気の影響で視認はできなかった。当時は見えたのかどうか定かではないが、このころから地図的なとらえ方をしていたのかもしれない。詳細を詰めていくのは今後の課題である。

(図5 平安京の十字軸)

(図6 船岡山から京都市内への眺め)

 次に、京都タワーから京都全体を眺めた写真を示す。京都タワーの位置は図に示す。南西〜北〜南東にかけてなだらかに山々に囲われていることがわかる。なだらかな山の中で西方の愛宕山(923m)、北東方向の比叡山(848m)が比較的高い山で目立って見える。船岡山(115m)は視認可能であるが、京都市内全体から見てその存在が際だっているわけでもない。
 船岡山を主山(四神相応の玄武)とみなすことは四神相応という言葉に結びつけられお決まりのようになった感もある。しかし、なぜ船岡山が選ばれたのか明確な理由はわからない。京都市内から見える山の中でより象徴的に見えるのは船岡山でなくて比叡山の方である。京都に訪れる人も、比叡山は知っていても船岡山を知らない人は多いだろう。
 風水の吉地の説明の時にも説明したように、風水では気の流れを重要視し、中国ではその気の出発点は崑崙山であるとされる。崑崙山からの気の流れにより主山の選定を行う。朝鮮半島では、白頭山からのつながりを意識して主山の選定を行う。しかし、日本ではその気の出発点といわれる山がどこなのか明確ではない。そこに大陸と日本本土との違いがある。日本に風水思想が持ち込まれたとき、日本は島国であるため崑崙山とのつながりについてはあまり重要視されなかったために中国や韓国のような思想は日本では薄れていったのかもしれない。四神相応という言葉が一人歩きをしている感もある中、京都と風水思想の関係をより一歩深く論じてい際に、京都の祖山・日本の祖山はどこにあたるのか考察してみることも興味深いことだと思われる。今後の研究では、そのようなことも視野にいれて行きたいと考えている。

(図7 京都タワーの位置)

(図8 京都タワーからの眺め 高さ100m)

4.ソウル

 ソウル(当時は漢陽)は李成桂(太祖)が建国した李朝(1392年-1910年)の国都である。遷都当時は面積20k・で総長18.3kmの城壁によって囲まれていた。
 ソウルは朝鮮半島の国土的な中心の地域に位置し、その地勢は景福宮を中心として、その周囲を北は北漢山(836m)・北岳山(342m)、東は駱駝山(126m)・龍馬山(348m)、西は仁旺山(338m)、南は南山(265m)・冠岳山(629m)等の山々に囲繞され、南方を漢江が環抱している(図9)。ソウルは風水思想の理想モデルに適うと言われるが、東側と南西側が開けている。景福宮の位置が穴にあたり、北方の主山を北岳山、祖宗山を三角山、東方の駱駝山を青龍、西方の仁旺山を白虎、南方の南山を案山、冠岳山を朝山とする。明堂内には清渓川、南山の南には大河である漢江が取り囲むように流れている。
 ソウルタワー(高さ378m、南山の上に建つ)からの眺めを図11に示す。主山である北岳山、その後ろにひかえる北漢山の印象が際だっている。西側には仁旺山がうかがえる。東側は一見して緑の広範囲の部分が駱駝山に見えるが、そこは昌徳宮の敷地の緑地である。駱駝山はそこより東に位置するがどこにあたるか特定しづらい。地形図と同様に背後の山勢及び西側の仁旺山を中心とする山勢は良くわかるが、京都ほど風水思想の吉地のように囲まれた地形という印象は受けない。むしろ囲まれているというよりも主山の存在感の方が際だっている。

(図9 ソウルの地勢)

(図10 ソウルタワーの位置 高さ378m)

(図11 ソウルタワーからの眺め 高さ378m)

CG地形モデルによるシュミレーション

 ソウルタワーからの眺めを見て頂いてもわかるようにソウル市内はもはや高層ビルが乱立しており、市内から周辺の山並みの様子を見ることは困難である。そこでソウル市内からの眺めをCG地形モデルによりシュミレーションを行った。CG地形モデルは朝鮮総督府時代の地図の等高線を元に制作した。CG地形モデルは以下の手順で作成した。
(1)2D等高線データの作成(使用ソフト:Illustrator 10)
 地形図4),5),6)より等高線をトレースする。7)
(2)3D等高線データの作成(使用ソフト:Vector Works 9)
 等高線データに高さを与え、3D等高線データとする。
(3)CG地形モデルの作成(使用ソフト:form Z 3.6)
 3D等高線データに「TERRAIN」ツールを用いてCG地形モデルを作成する。
CG地形モデルとソウル周辺の地勢の関係は図12に示す通りである。

(図12 ソウルの3D地形モデルの鳥瞰図)

 CG地形モデルを用いて穴の位置から周辺の山並みがどのように見えるのかシュミレーションを行った。図13に示す位置に人間が立った場合の四方の眺めをパノラマで示したものが図14である。図中グレイの部分は明堂内部を示す。四方には山並みがほぼ切れ目なく視覚的に認識できる。北方から順に見ていくと、まずソウルの主山(狭義の玄武)とされる北岳山(342m)が見え、北東には青龍だとされる駱駝山(125m)東方には龍馬峰(348m)、東南から南方にかけては案山である南山(265m)、南方には冠岳山(629m)西方には鞍山(296m)、西方から北西にかけては仁旺山(338m)を中心とした山並みがうかがえる。周りに見える山並みの内、実際の明堂内を境界づけているのは北岳山,駱駝山、南山、仁旺山で、西方と南方は遠方のそれぞれ龍馬峰(視点位置から約20km)、冠岳山(視点位置から約25km)が、明堂内の境界としての山並みがとぎれている部分を補っており、四方が囲まれているような印象を与える。また、北岳山は、明堂を境界づける山の中で、高さが一番であるだけでなく、形の上でも一番際だっている。一国の国都の重要建築である景福宮がその象徴性を高めるために、この山を背にして建てられたということは十分に考えられることである。実際の眺めを図15に示す。現在でも景福宮の南側にいけば主山である北岳山を眺めることができるが、一本道を外れると高層ビルに遮られてしまい山並みを視認することは困難な状態である。

(図13 シュミレーションを行った穴前の視点位置)



(図14 穴前の視点位置からの四方への眺め)

(図15 現在のソウルでの北岳山の眺め)

坐向論議

 次に、ソウルの坐向論議をCG地形モデルを用いて視覚的な観点から考察を行う。
 坐向は穴の位置から見た方位、すなわち穴の後の背にした方位を坐、そして穴の正面を向とする。坐向は方向の概念とは異なり、選ばれて決定される坐向はただ一つである。風水の理想モデルにおいては祖山-主山-穴-明堂-案山-朝山1)が軸上に配され、それらの要素により坐向も決定される。都市の坐向は、宮殿の方向や道路網、発展方向に影響を及ぼすため、その決定は重要事項であると考えられる。漢陽(現在のソウル)では、主山をどこにするかという問題が遷都当時、および世宗代にしばしば論議されたといわれる。2)本稿では、車天輅(1556-1615)の随筆集『五山説林』巻五に記されている坐向論議を取り上げる。
 遷都当時の主山の決定と国都の坐向に関する論議は鄭道伝と無学大師の間で繰り広げられたものであるとされる。無学大師の意見が仁旺山を鎮山、すなわち玄武に、南山と北岳を白虎と青龍とし、都邑を東向、すなわち酉座卯向にしようとするのに対して、鄭道伝は、古来君主は南を向いて政事を布かなければならず、宮殿を南向、すなわち壬坐丙向とし、北岳山玄武、仁旺白虎、駱駝山青龍を主張したという。後者が現在のソウルの坐向に相当する。無学の意見である仁旺山を鎮山にする坐向が如何なる理由で述べられたのかは記録がないので定かではない。ソウル明堂内部の地勢図(図16)から判断すると、北岳山を主山とする南向きの坐向の場合は東の山並み、すなわち青龍である駱駝山が125mと低く形勢が弱いのに対して、仁旺山の坐向の場合は一見して後ろ三方を同じような高さの山並み(北岳山342m、仁旺山338m、南山265m)に囲われ、前方に駱駝山、龍馬峰をのぞむ形勢となり、こちらの方が風水の理想モデルに近いということは考えられる。

(図16 二つの坐向案 城壁で囲まれた範囲)

(図17 二つの坐向案 周辺の山勢も含めた範囲)

 図17に坐向論議の対象となった二つの坐向の軸上の山を示す。坐向の決定においては、坐向軸上に位置する山々、すなわち理想モデルでいう祖山-主山-穴-明堂-案山-朝山の関係が問題となる。ここではその軸上の要素に着目して視覚的な観点から考察を行う。
 仁旺山主山の場合にその軸となるのは、その坐向の方向に位置する山である仁旺山、駱駝山、龍馬峰が並ぶ東向の軸である。これに対して、北岳山を主山とする場合は、北岳山-南山-冠岳山が並ぶ南向の軸である。図18に各々の主山の場合の「穴からの案山、朝山への眺め」、「案山から主山への眺め」、「朝山から主山への眺め」を示す。それぞれの眺めについて両者を比較してみると、「朝山から主山への眺め」にその差が一番顕著に現れている。冠岳山から北岳山への眺めの方が明らかに主山である北岳山の印象が際だって見える。逆に明堂内からの眺め、すなわち「穴からの案山、朝山への眺め」では両者の見えに大差はない。このことは、山々に囲繞された明堂の中からだけでなく外からの連続した山勢の見え、すなわち主山の後ろにひかえる三角山(北漢山)の視覚的印象が、坐向決定の大きな要因の一つとして挙げられることが考えられる。

(図18 眺めの比較)

 以上ソウルタワーからの実際の眺め、3D地形モデルを用いて主山の選定、坐向の決定の問題を取り上げてみても気が流れてくるとされる主山・祖宗山が重要視されたことが推察される。実際は京都ほど囲われている訳ではないが、ソウルは風水思想の理想モデルにかなうとされる。これには政治的な要素もあるかもしれなが、当時は囲われているように見えたのかもしれない。いづれにしろ京都とソウルは風水思想で説明される都市という共通点はあるが、その中でも構造に違いがある。京都はなだらかに三方を囲われ、ソウルは主山が象徴的に位置しそこから枝分かれした支脈に囲われいる。これはあくまでも私の印象に過ぎないが、韓国の建築は色彩・形態がいかにも自己主張しているようなものがたくさん見られた。主山が象徴的に存在する地形構造が国民性に影響を与えているのではないかと思われた。

5.まとめ

 自然との調和の思想とも言える風水思想の理想モデルに適うとされ遷都されたソウルが現在は周囲の山並とは無関係な高層ビルの乱立して景観が破壊されてしまっているのは危惧すべきことである。同じように風水思想の吉地の条件にあてはまると考えられる京都は、問題はあるもののソウルに比べてまだ景観は守られていると言える。もはやソウル市内では限られた場所からしか山並が見えないが、京都市内では一度広い通りに出れば山を眺めることでき、自分のいる場所を実感することができる。技術が進歩し、現代建築は自然と無関係に建てられても用は足せるようになったのかもしれない。しかし、それは結果としてそこで暮らす人々が環境と調和してくらす能力を退化させてしまうと同時に、生活の中での精神的なよりどころも失っていっているのではないだろうか。風水思想では、山に囲われた空間の中でその場所ごとに意味づけを行う。そこに暮らす人はその場所に共通の意識をもって生きている。そこが大事なことなのだと考えている。今後は、その共通の意識がどこで変わっていったのか、何が変えていったのかを意識して研究を進めたい。また京都を中心とした関西圏における都市と風水思想の関連も掘り下げていきたい。

主要参考文献

邦文
1)村山智順:『朝鮮の風水』朝鮮総督府、1931(1971年復刻版)
2)崔昌祚著 ; 金在浩, 渋谷鎮明共訳:『韓国の風水思想』人文書院、1997.10
3)牧尾良海著:『風水思想論考』考査医科学技術出版社、1994
4)何曉晰著;三浦國雄監訳、宮崎順子訳:『風水探源 中国風水の歴史と実際』人文書院、1994
5)黄永融著:風水都市 歴史都市の空間構成、 学芸出版社、1999
6)渡邊欣雄著:『風水思想と東アジア』人文書院、1990
7)渡邊欣雄著:『風水 気の景観地理学』人文書院、 1994
8)渡邊欣雄著:『風水の社会人類学』風響社、2001
9)三浦国雄著 :『中国人のトポス』平凡社、1986
10)三浦國雄著:『気の中国文化 気功・養生・風水・易』創元社、1994.6
11)渡邊欣雄、三浦國雄編:『風水論集』1994.9
12)郭中端、 堀込憲二共著:『中国人の街づくり』相模書房 、1980.3
13)姜在彦:『ソウル』、1992.7.20
14)韓国地理風俗誌叢書(30) 『大韓地誌』『八域誌』、景仁文化社、1995
15)南北朝鮮地理風俗叢書(113)『地理新法』『明山論』『巽坎妙訣』、景仁文化社、1995
16)野崎充彦著:『韓国の風水師たち 今よみがえる龍脈』、人文書院、1994.8
17)盧思愼:『新増東国與地勝覧』第1〜4、朝鮮史学會 , 1930
中文
18)王庭玖主編 ; 一丁, 雨露, 洪涌編著:『中國風水與建築選址』藝術家出版社、1999
19)程建牢,孔尚朴著:『風水与建築』江西科学技術出版社、1992
20)文沛林著:『風水 中国人的環境観』、1995.12
21) 何曉晰著:『風水史』、1993
参考論文
22)堀込憲二:「風水思想と都市の構造」−『思想』1990年12月号、岩波書店
23)三浦國雄:「風水説と福地思想」-『風水論集』p51、凱風社、1994.9
24)渋谷鎮明:「李朝邑集落にみる風水地理説の影響」-『風水論集』p187、凱風社、1994.9
25)西垣安比古:「朝鮮の「すまい」と風水思想」-『風水論集』p333、凱風社、1994.9
26)西垣安比古:「朝鮮の「住まい」におえるマルとマダン-風水地理説を通して-」
27)黄永融、本多昭一:「日本古代宮都の敷地選定と中軸線計画について -風水思想からみた古代宮都計画の研究−」日本建築学会計画系論文報告集NO.474 P.143 1995.8
28)張 翠萍、北原理雄:「風水の別称からみた風水の原点と本質 -都市計画における風水思想の基礎研究-」日本建築学会計画系論文報告集NO.491 P.125 1997.7
29)朴 賛 弼,山田水城,古川修文:「韓国済州島における城邑集落の構成について -風水思想からみた集住空間に関する研究-」日本建築学会計画系論文報告集NO.497 P.89 1997.1 
30)椿 勝義、坂本磐雄、北野 隆:「集落の風水史料及び古地図に基づく八重山地方の集落坐向 -風水思想による沖縄の集落空間形成に関する研究-」日本建築学会計画系論文報告集NO.500 P.213 1997.10
31)張翠萍、北原理雄:「房総半島における「風水空間」の研究-『青鳥經』に基づいた
解読の試み-」 日本建築学会計画系論文報告集NO.510 P.169 1998.6
参考資料
32)科学書院,加藤敏雄:『朝鮮半島地図集成』霞ヶ関出版株式会社、1999(1935発行)
33)金正浩:『大東輿地図』 草風館、 1994.9
34)許英桓:『帝都600年ソウル地図』汎友社、1994.6
35)『朝鮮半島五万分の一地図集成』、学生社1994
36)朝鮮総督府作成:『朝鮮半島一万分一地形図集成』、柏書房1994

Top





Home


Copyright(C) 2004 MUKOGAWA Kansai Culture Research Center. All Rights Reserved.