●2004年10月14日 第4回MKCRセミナー

発表者:柴田 清継氏
      
武庫川女子大学教授
       サブ・プロジェクトa2リーダー
題目:神戸発行『日華新報』の基礎的考察−明治大正期の日中両国語新聞−
日時:2004年10月14日(木)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス柴田先生
    中央館(中央図書館棟)7階708教室(C-708)
発表要約
神戸発行『日華新報』の基礎的考察
−明治大正期の日中両国語新聞−
柴田 清継
 わたしは二年前、明治大正期の関西における中国語教育者西島良爾の事績について調査し、彼の評伝をまとめた。彼の伝記資料収集の際の出発点となるものに、対支功労者伝記編纂会編『対支回顧録』下巻所収の列伝等があり、それらには彼の神戸在住時の事績の一つとして、神戸発行の『日華新報』という日中両国語の新聞の編纂に携わったことが記されている。わたしが彼の評伝の執筆に取り組んでいた当時、『日華新報』は、『学術雑誌総合目録』によれば、そのほんの一部ではあるが、神戸大学人文社会科学系図書館に所蔵されていることになっていたので、閲覧調査の許可を申請したところ、既に廃棄処分した旨の回答が返ってきた。
新聞自体の現物調査が不可能となったため、わたしは別の角度からアプローチを試みた。すなわち日華新報社が新聞とは別に出版していた単行本の調査である。国立国会図書館の蔵書目録等で調べた結果、日華新報社刊行の単行本には次のようなもののあることが判明した。

日華新報社編『日本商工大観』1906(明治39)年
同『神戸清商外商営業須知』1910(同43)年
同『日本商工須知』同年
西島良爾訳・葉伯常閲『最新改正・漢訳日本各種税法須知』1911(同44)年
品川仁三郎編『孫文先生東游紀念写真帖』1913(大正2)年
『世界関税大全』1914(大正3)年
河野信次『台湾糖業観』1915(大正4)年
『世界輸出入大観』1918(大正7)年

 これらの単行本の奥付から、同社の社長は品川仁三郎で、所在地は神戸市元町通三丁目百三十五番地であったことが判明した。また、これらの書名が既にある程度、日華新報社という新聞社の性格を物語っているが、各書をひもとくことによって、さらに多くの情報が得られた。まず『神戸清商外商営業須知』の巻末の記載によれば、品川は1905(明治38)年に中外商務恊会というものを設立し、『日華新報』をその機関紙と位置付けている。中外商務恊会の会則の第三条には次のように謳われている。

本会ハ通商貿易ニ関係アル内外有志者ヲ糾合シ商工業ニ関スル利害得失ヲ討究シ斯業ノ改善ヲ図ルハ勿論相互間ノ交際情誼ヲ厚クスルコトニ勉メ進ンデ商業道徳ヲ発揚シ在来ノ余弊ヲ矯正スルヲ目的トス

第十三条には、日中間の商工業実況調査のために相互の利便を図るべく、あらかじめ清国各地の商務団体と商議を遂げてあることが謳われており、そのことから、この会は特に中国との貿易に力点を置いたものだったことが知られる。さらに第二十条によれば、法律・商工業・外国語及び文章に精通せる顧問若干名を置くとあり、第七条によれば、諸登録・翻訳・通訳等の嘱託を受けていたともいう。同書の巻末にはまた、日華新報社の翻訳部の広告があり、和文⇔英文、和文⇔清文、和文⇔韓文、英文⇔清文の各翻訳を請け負うことが宣伝されている。
次に『日本商工須知』巻末には、中国語による次のような『日華新報』の広告が載っている。

○本報実日本唯一之漢字新聞専期為中外商務場中之機関是以中日両国之商務一切細大不漏載録以資当業者之参核
○本報実為中日貿易之指南車而又留学界唯一之大機関故拡張中日貿易欲維持東洋之和平於永遠之諸君須不可不利用本報也
訓読すれば、それぞれ次のようになる。

○本報は実に日本唯一の漢字新聞にして、専ら中外商務場中の機関たらんことを期す。是を以て中日両国の商務は一切、細大漏らさず載録して以て当業者の参核に資す
○本報は実に中日貿易の指南車たり。而して又留学界唯一の大機関たり。故に中日貿易を拡張し、東洋の和平を永遠に維持せんと欲するの諸君は須らく本報を利用せざる可からざるなり
 これにより、『日華新報』発行の趣旨を知ることができるのである。なお、上引広告の中国語文には語法の誤りがあり、中国人が書いたものとは考えにくい。となれば、日本人が書いたものと見るのが順当なところであろう。
さて、今一つ、日華新報社の性格を知るための手掛かりとなるのは、1913(大正2)年における『孫文先生東游紀念写真帖』の発刊である。孫文は1895(明治28)年から1924(大正13)年まで、頻繁に日本を訪れているが、同書は彼にとって最も晴れやかでくつろいだものであった1913(大正2)年の訪日の全行程を中国語で克明に記して、これに各地で撮影された写真を配したものである。彼の神戸滞在はわずか二日間に過ぎなかったのだが、記事はかなり詳細であり、写真も神戸でのものが全17枚中の7枚を占めている。当時、神戸では日本人官民、華僑が一体となって、孫文に対する大々的な歓迎準備に取り組んだ。そのような神戸の空気の中に日華新報社も融和していたのであろうことが窺われる。
 その他の資料としては、『新聞総覧大正三年版』に、同報の創刊は1902(明治35)年6月15日で、毎月3回発行と記されている。
『日華新報』及び日華新報社について、わたしはほぼ以上のような事柄を解明して、これを「西島良爾 中国語とともに生きた明治人」と題する評伝(馬場憲二・管宗次編『関西黎明期の群像 第二』所収。和泉書院、2002年4月)にまとめた。その後間もなく、この評伝の発表がきっかけとなり、2002年6月の神戸華僑華人研究会・孫文研究会の合同例会で、「西島函南と孫文・神戸華僑」と題して研究発表をする機会を与えられた(このときの発表要旨は神戸華僑華人研究会『通訊』第45号に掲載)。発表後、ご臨席の諸先生から多くの有益なご教示をいただいた。その中に、『日華新報』の解明にとって重要な事柄が二点あった。一つは、『日華新報』はやはりその一部が神戸大学人文社会科学系図書館に収蔵されていること、もう一つは、外交史料館に『日華新報関係雑纂』と題する史料が保存されていることであった。
 そこで、わたしはまず神戸大学国際文化学部教授(当時)安井三吉先生のお世話で、同大学図書館所蔵の『日華新報』を閲覧調査させていただいた。その際の調査の結果を書誌的な面から記すと、同報は1923(大正12)年4月25日発行の第869号から1925(大正14)年4月20日発行の第891号までの計22号分がほぼ完全な形で残っており(第870号欠)、その他、1925年7月25日発行の第893号、1926年4月10日発行とおぼしき号、同5月25日発行の第903号、同6月10日発行の第904号、同6月28日発行の第905号、同8月10日発行の第908号、同8月25日発行の第909号、同10月25日発行の第912号、同11月10日発行とおぼしき号の、それぞれ1〜3ページ分が断片として残っている。各号は、第890号を除き、他はすべて第1面は中国語ページで、中国語ページは各号平均2〜3ページ、日本語ページは平均5ページ、残りは広告ページで、平均約4ページである。ただ、広告は和習を含みながらも、一応中国語で書いてあるものが多いから、中国語ページに入れてよいかもしれない。新年号である第876号と第887号はそれぞれ計32ページと28ページであるが、他は平均11.5ページである。新年号におけるページ数の増加は、主として広告ページの増加のためであり、特に、平常号にはほとんど掲載されていない神戸華商の広告が新年号には数多く掲載されている。一例として、第873号掲載の記事の見出しを以下に示そう。
第1面:「新内閣成立」、「大震災彙報」として「布告戒厳令」「全国各師団出動」「山本新首相諭告」(以上、中国語)
第2面:全面広告
第3面:「大震災彙報」、「中国要聞」として「排日運動之被害調査」「対支那官憲要求注意」「排斥日貨運動稍緩和」「四国公使警告北京政府」、「日本近聞」として「神戸日支実業協会総会」「日本会議所聯合会特派団長西川荘三氏之低制日貨談」(以上、中国語)、「財政計画と政府の方針」「張氏寄贈品」「王曹段三氏寄贈」「香港銀行援助决議」(以上、日本語)
第4面:「震災経済 勅令発布の影響」として「外国為替中心 大阪に移る」「生糸輸出準備」「硝子輸入商談」「生糸輸出港 争奪運動」「長野生糸輸出善後協議」「百万を超ゆ 関東州義金」「支那排日紙の同情」(以上、日本語)
第5面:「日本対支貿易業家に警告 在阪一華商投稿」「生糸輸出港としては神戸を適当と認む 関西商議聯合会の决議」「生糸検査所の設置要望决議」「外国私報開始」「罹災地の郵便物」「東京附近私設鉄道状况」「神戸から羽二重 三井物産の新計画」「台銀総会」(以上、日本語)
第6面:「海外商報」として「絹綿布輸入状况 瓜哇」「独逸経済界近状」「セメント状况鉄嶺」「高瀬貝輸出趨勢 濠州」「今後の対露貿易方策」(以上、日本語)
第7面:「天津方面の排日運動表面鎮静」「揚以徳氏親善論」「印度商標登録方法」「吉林に於ける硝子商况」「露国外相 日露親善を説く」「南洋売込有望」(以上、日本語)
第8面:「大阪市役所商工課貿易調査報告」「腿帯子の支那輸入の状况」「帆布工塲創立計画」(以上、日本語)
第9面:「大阪貿易同盟会報告」「大阪府立商品陳列所主催 支那商工業の視察と優良商品の展示」「支那に於ける邦人経営商店(湖南省)」「莫大小取扱商(汕頭)」「貝釦市况 南阿」(以上、日本語)
第10面:全面広告(「日本著名貿易家須知」)
第11面:全面広告
第12面:全面広告
 以上のような内容は、『日華新報』残存資料にほぼ共通してみられるものであり、また、上述の『神戸清商外商営業須知』巻末の記載や『日本商工須知』巻末の広告の内容ともほぼ対応するものである。この二書が発行された1910年から、残存号のある1920年代初期まで、新聞記事の内容に大きな変動はなかったのではないかと推察される。ただ、残存号の全体を鳥瞰してみても、『日本商工須知』巻末の広告に謳われていた「留学界唯一の大機関たり」という点を裏付ける記事等は特に発見できなかった。
 次に、わたしは東京の外交史料館に赴き、同館所蔵の『日華新報関係雑纂』を閲覧調査した。この史料は、1910(明治43)年1月末、ハルビン発行の『亜東報』に『日華新報』の定期購読者を募る広告が掲載されているのを発見し、そこに「排日的記事ノ掲載ナキヲ保シ難ク」感じた当時の在牛荘(現在の中国遼寧省に属す)領事太田喜平が、外相小村寿太郎に同報についての調査を依頼し、この任務を託された内務大臣平田東助が日華新報社の状況についての内探の結果を同年3月4日付で小村に回答するに至るまでの諸文書を一つにまとめたものである。
 この史料のうち、平田内相の回答には、『日華新報』の発行所として上記の「神戸市元町通三丁目百三十五番地」が記されるとともに、支局の所在地として「東京青山南町三丁目五十三番地」と「清国上海美租界河南路楽善堂」の二カ所が記されている。「発行ニ関係アル重立者」としては、社長及び会計主任として品川(神戸市元町通三ノ四三番地居住)、編輯主任として王津(清国人)、東京支局主任として王蔭藩(同前)、上海支局主任として岸田太郎(目下帰国中)の名が列記され、「名誉賛成員」として当時の清国の前駐日公使・現任公使・商約大臣・公使館参賛・同通訳官・前留学生監督・現留学生監督・神戸総領事・大理院推丞の氏名が列記されている。「発行ノ主旨」としては「東亜ノ平和ヲ維持スルヲ目的ナリト云フ」と記されている。その他、「本邦及本邦領土外トノ関係人士及新聞紙」として「東京 横浜 大阪 神戸 長崎ニ居住スル清国商人及駐日公使館員ノ一部分ニ関係」するとし、『上海時報』や『北京日報』等、中国の13種の新聞名が挙げられている。「社員ノ氏名」として中国人とおぼしきもの3、日本人とおぼしきもの2が記され、「原稿寄贈者」は「清国公使館員 領事館員及留学生等ナリ」とされている。「資本金ノ出所及其額」の項には「資本金約五千円 但シ一般ニ壱万円ト称シテ居ル由 駐日公使領事其他同国官吏ノ支出ニ係ルモノトス(兵庫県知事ノ報告ニ依レハ資本主品川仁三郎ニシテ資本金五百円トアリ)」とある。「発行部数及発売頒布区域」は「毎月六回発行シ一回ノ発行部数平均二千部ニシテ大部分ハ上海、香港、天津、牛荘、漢口等ナリ其他ハ在留清国商人官吏学生及仏国米国等ニ於ケル清国留学生ニ販売スト云フ」とされ、「維持方法」は「新聞紙及広告料等ノ収入ニ依リ維持シ社運隆盛ナラサルモ将来永続ニ発刊スル摸様ナリ」とされている。最後に、「主幹者王津ノ略歴」と「王蔭藩ノ行動」についても記されている。
 これらの情報は、いずれも『日華新報』及び日華新報社の実体解明の有力な手掛かりとなるものであり、今後逐次精査を加えていかねばならないが、今回は二つの項目のみを取り上げて、若干の考察を試みてみよう。
 第一に、先に問題点として提起した『日華新報』の「留学界」とのかかわりがいかなるものであったかについて、この史料によって、ある程度知ることができる。すなわち、同報の編輯主任の王津と東京支局主任の王蔭藩が既に清国からの留学生であり、また、清国留学生は一般に同報への原稿寄贈者の一部及び同報の購読者の一部としても期待される対象なのであった。同報の創刊が、上述のとおり、1902年であったとすれば、少なくとも平田内相がこの報告書を作成した1910年ころまでは、このような性格が同報には備わっていたのであろうと想像される。これに対し、同報の現物資料の存在する1923(大正12)年以降は、そのような性格が影を潜め、これに代わって、実業家、中でも日本側の大阪の商工業者向けの新聞という性格が際立っている。その最も顕著なものは、当時大阪にあった対中貿易者の団体「大阪貿易同盟会」の活動に関する報告や「大阪市役所商工課貿易調査報告」の類いが毎号にわたって掲載されていることである。中国では1911年の辛亥革命により、最後の封建王朝清国から中華民国へと政体が転換した。そのような時代背景との関係も考えられるかもしれない。
 なお、平田内相の報告書で王蔭藩は「清国革命党ト関係ヲ有スル趣ナリ」と説明されているが、それは牛荘の太田領事が懸念していた同報の排日的性格に直結するものではない。清国革命党と関係を有するらしき点があったとしても、同報の名誉賛成員に清国の高官が名を連ねていることからして、それほど深刻な問題であったとは考えにくい。
 第二に、同報の創刊にどのような人物がかかわったかという問題である。一番に考察の対象としなければならないのは社長の品川仁三郎であるが、わたしは現在のところ、この人物について何ら新たな情報を獲得することができないでいる。品川はしばらく措き、ここでは日華新報社の上海支局主任とされる岸田太郎に注目してみたい。太郎は岸田吟香の二番目の弟万三郎の長男である。吟香は1877(明治10)年、精奇水という目薬を販売する楽善堂を東京銀座に開店し、翌年には上海に、さらに1887(明治20)年には漢口にそれぞれ支店を開設した。万三郎の五男完五の息子である岸田準一の回顧するところ(「上海楽善堂の思い出」。『浄世夫彦記念会々誌』6所載)によれば、楽善堂上海店の経営は完五が当たり、太郎は中国書籍の取り次ぎに当たっていた。太郎(両臣)は漢詩をよくした「ディレッタント」で、かつて神戸で「漢字日華新聞を発行していたが廃業、上海に渡って楽善堂の経営に当った」が、「商才のない太郎の手に負えず、完五が代って薬房を引受け、支那書籍だけを主宰した」という。太田領事が小村外相に『日華新報』についての調査を依頼した書状には、『亜東報』掲載の『日華新報』の広告が切り抜いて貼付されているが、そこには「本社開設以来巳(ママ)臻七載遇無量之風波竭人生之惨境備極艱難始至今日居日本国発日本私做一日清国民尽一日清国心成敗利鈍固非所計也……」と記されており、これは「本社開設以来巳に七載に臻り、無量の風波に遇い、人生の惨境を竭くし、備さに艱難を極めたり。始めて今日に至りて、日本国に居り、日本より発するも、私に一日の清国の民たり、一日の清国の心を尽くしたれば、成敗利鈍は固より計る所に非ざるなり。……」と訓読することができる。広告文に「成敗利鈍は固より計る所に非ざるなり」などということを記すのも奇異の感を抱かせるが、この文章の執筆者が太郎であるとすれば、準一が述べるその人柄からして、ありうべきことと思われる。また、太郎の漢詩人としての号「両臣」を日本・清国の両方に臣事するの謂と解するなら、これまた、広告文に述べられた個人的な感慨と符合する。このように見てくると、この広告文は太郎の筆になるものである可能性が極めて高いのであるが、もう一つ重要なことは、太郎の伯父である吟香は浜田彦蔵らとともに日本最初の民間邦字新聞『海外新聞』を発行した人物でもあり(「上海楽善堂の思い出」という文章がジョセフ彦、すなわち浜田彦蔵の記念会誌に掲載されたのも、この因縁からである)、また、当時の著名な興亜論者荒尾精らと提携して対中国活動にも力を注いだ人物でもあった。現在までのところ、わたしに究明することができたのはこの程度に過ぎないが、太郎の『日華新報』とのかかわりには以上のような重層的な背景があるのであって、今後のさらなる精査により、真相に肉薄することができるかもしれないと考えている。
 現在の時点である程度まで論及できる問題は、他にも、発行頻度や支局所在地の変遷、当時中国で発行されていた日本人経営の中国語新聞とのかかわり、『日華新報』の中国語記事の読解等、幾つかあるが、別の機会にあらためて論じることとしたい。

Top




Home


Copyright(C) 2004 MUKOGAWA Kansai Culture Research Center. All Rights Reserved.