●2004年7月26日 第2回MKCRセミナー

発表者:井上 雅人氏
      京都造形芸術大学芸術学部空間演出デザイン学科専任講師
      サブ・プロジェクトd8研究分担者
題目:関西ファッション史の形成にむけて
日時:2004年7月26日(月)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    中央館(中央図書館棟)7階708教室(C-708)
井上氏
会場の様子 


発表要約
『関西ファッション史の形成に向けて』
井上雅人(京都造形芸術大学)

 この共同研究『関西におけるファッション(衣)文化の形成−裁縫習得及び衣服作りに関する事例発掘を通して−』は、2003年に開催された意匠学会第45回大会シンポジウム『戦後50年の服飾文化および服飾デザインに関する概説書』の成果を受けて、継続、発展させていくことをねらったものである。しかし、先のシンポジウムが取り扱った「服飾デザインに関する概説書」だけに研究の対象を絞るのではなく、教育制度を中心にしながら、広く関西におけるファッション文化史全体を扱うことを目指している。
 そもそも我々が『戦後50年の服飾文化および服飾デザインに関する概説書』において共同研究を始めるにあたって、以下のような共通の歴史認識があったことは特記すべきであろう。まず、被服学という学問が大きく変質していること、ついで、ファッションと呼ばれる衣服を取り巻く文化の有り様もまた大きく変化していること、最後に、それらの舞台となる都市と都市文化にも大きな変化がおきているということである。こういった変化は何も現在に限らず、いつの時代にもおきていることではあるが、21世紀を迎えた今、この時期特有の問題が浮上していることも確かであり、あらためて整理しなおすのも意味があろう。そこで最初に、それぞれについて、簡単にではあるが概説したい。
 まず、ひとつ目の被服学についてであるが、被服学は第二次世界大戦終了とともに、小川安朗といった人々を中心に形成された。そのことについては拙著『洋服と日本人』において詳しく述べているので、ここでは簡単に触れるにとどめるが、小川のような元軍人が関わることによって、被服学には衣服を経済的あるいは科学的に見ようとする軍隊が培った眼差しが受け継がれている。そういった軍隊あるいは軍人的身体をより合理的に形成しようとするメソッドが、戦中戦後においては家事や家計の合理性の追求に転化され、家庭で衣服を生産する「自家裁縫」という形と結びついて隆盛を迎えることになる。しかしそのような安定は長くは続かず、70年代に入ると「自家裁縫」は衰退し、そのバックボーンであった被服学自体も変質せざるを得なくなる。その後被服学は形を変えながら現在も存在しているが、これといった決定的な役回りを見つけることなく、かといって消滅することもなかった。被服学はその歴史の前半は、確たる居場所を持ち、後半は柔軟に領域を移し変えてきたわけだが、それは時代時代の家庭や産業のあり方に応じてのことであったろう。現在、若年層の人口が減少に向かっていること、階層の分離が進行しつつあることなどを受けて、家庭のあり方も変化せざるを得ない状況にあり、それをうけて被服学もまた変質をしようとしているのではないだろうか。それゆえに、この転換期において被服学の前史、形成、発展、変質を整理するのは、今後の被服学にたいしての貢献ということを考えても、あるいは歴史的に整理しやすい時期に入っているということを考えても、意味のあることではないだろうか。
 次に、二つ目に掲げた「ファッション」についてであるが、70年代半ばに自家裁縫が衰退すると、「被服」という言葉と入れ代わるように「ファッション」という言葉が頭をもたげてきた。その背景には、オイルショックなどを起点とした世界的な構造変化を受けた上での、日本における輸出産業の変質、国内消費のあり方の変化など様々なものが存在しているが、いずれにせよ、80年代から90年代にかけて、日本のファッション産業は世界的に見ても隆盛した。これに関しては昨今、様々なアプローチから意義深い研究がされ、確実に蓄積されているが、しかし、研究が盛んになるのと歩調をあわせるかのように、前世紀の末頃から「ファッション」の役割や位置付けに変化が見られ、ファッションデザイナーたちも、あからさまなまでの未来や、極端な革新的イメージを提示することが無くなってきた。つまり、ここ10年あまりのアパレル産業では、「ファッション」という考え方から、「ブランド」という考え方へ重点の移行が起こり、「ファッション」という言葉が重みを持たなくなってきているのだ。「ファッション」も「ブランド」も同じような意味合いで使われることが多いため、その変化はほとんど問題にもされなかったが、次々に新しい物を提案することによって、それまでのスタイルを否定する「ファッション」と、信頼の証として不変であることを信条とする「ブランド」の間には、逆転とも言えるぐらいの価値の違いがある。ファッションもまた、ここにきて大きく変質しようとしているのだ。それゆえに、被服学と同様に、ファッション文化がどのように出現し、どのような構造で支えられてきたのかを整理することは大変意味があろう。
 最後に都市の文化の有り様であるが、特に情報という側面について見ると、現在ファッションだけを見ても、情報の発信力はより東京に集中しているように思える。こういった実感は、果たして裏づけのあることなのであろうか。逆にいうと、かつて、目に見えるような形での関西を情報発信地とするようなファッションというのはあったのだろうか。そういった素朴な問いに対しても真摯に答えていく必要があるだろう。また、新しいメディアによって席巻されている現代社会ではあるが、言語を通していかにコミュニケーションがされているかは研究されていても、ファッションのような視覚的イメージがメディアを通していかに共有されるのかについては、実はほとんど研究されてこなかった。それだけに、ファッションという具体的な現象に着目することによって、都市におけるコミュニケーションやメディアの構造の解明に対しても示唆を与えるだろう。

 ところで、われわれは、この研究を行うにあたって、フィールドを関西に限定することと、ファッション史というアプローチを取ることに、大きな意味を見い出している。
 関西に限定することの意味としては、ナショナルな枠組みではなく都市の枠組みで考えることができるということ、近代性とは何かということに対して東京から導かれるものとは違うオルタナティブな歴史を発見することができるということがまずあげられよう。また、関西圏の近代化は明治の早い時期に行われ、そのまま固定化してしまったので、例えば西陣織のように、奇妙な形で伝統化しているケースが多々ある。そういった近代のはじめに形づくられた伝統が、風俗にたいしてどのような影響を与えたのか、あるいは現在も影響を持っているのかは検討する必要があるだろう。特に関東大震災後、二次大戦までの時期に関しては、大阪が日本全土において文化的な中心地としての役割を果たした。その後の消費文化を決定するような時期なので、より綿密な検討がくわえられても良いのではないだろうか。
 ファッション史というアプローチを取る意味としては、産業史、風俗史、教育史、女性史、家庭史などの複眼的な視点を持つことができるということをあげておく。また、特にファッションの教育史に関しては、現在残っているドレスメーカー学院や文化服装学院といった有名校が東京にあるために、ファッションの教育が東京で発生したかのように語られがちであるが、実際はそうとも言えない。さらには、現在の専門学校や大学は長い年月の間に変質しているので、消滅していった関西圏の洋裁学校文化を検証することで、歴史の違った側面を発掘することが大いに期待できる。歴史というのは常に語る時点から手繰り寄せることのできる糸を編んで語られるものであるから、現在語ることが可能な、現在も存続している専門学校を中心にして歴史が語られるのは当然とも言える。それゆえに、語られずこぼれ落ちてしまった歴史は数多く、それらを丁寧に拾い上げていく作業はどうしても必要になる。
 そこで我々のプロジェクトでは、まず、衣服の製作に直接に関わる裁縫教育や専門学校を中心とした技能訓練の内容及び、それらとファッション産業との結びつきを発掘し、それら全体を視野に入れたファッション文化形成を核にした関係構造を明らかにすることを目標に置く。ついで、地域産業との関連、たとえば泉州機業地や、「東洋のマンチェスター」といわれた繊維製品の巨大集散地・加工地としての大阪、外来文明の受容地としての神戸、伝統的な職人文化を誇る京都などの地域に根ざした要因が、ファッション文化の形成にどのように関わるのかを探る。さらに、ファッション文化は消費文化であることに注目し、関西の街づくりとの関連、たとえば鉄道文化としての郊外住宅地の開発による消費地の受容層との関係、あるいは地域の情報メディアや商品流通の末端との関係などに注目していく。

 ここでわれわれの研究のひとつの具体例として、藤川延子と藤川学園について述べていきたいと思う。藤川学園とは、服飾デザイナー藤川延子(佐久間延)が、昭和9年に京都二条河原町に「藤川洋裁研究所」を設立したのに始まる洋裁の専門学校で、以後京都において活動を続け、昭和27年には役員24名、教職員72名、在校生2100名を数え、福知山にも支部をおいた。しかし、昭和49年ごろには藤川延子は学校から離れ、学校も昭和53年には京都芸術短期大学に改組し、その後、京都造形芸術大学となり現在にいたる。藤川学園は洋裁ブームと共に出現し、ブームが去るのと期を同じくして無くなっていた典型的な洋裁学校のひとつである。藤川学園のケースは関西ファッション文化史の一例にすぎないが、さまざまな側面を照射しているのも事実であろう。
 当時の洋裁専門学校の特徴としては、教員も学生もほとんど女性で、校長は女性デザイナー、理事長は男性(特にその夫)というパターンが多く、例外的に洋裁以外の科目の担当で外部から大学教員を招くこともあったようだ。また、分校の設置に積極的で、積極的に膨張が行われた。余談だがそういった事情は、『女の勲章』(山崎豊子 1961)に面白く描写されているので参考にして欲しい。ちなみに関西圏においては藤川以外に、田中千代、上田安子といったデザイナーが有名校を設立している。
 ところで、藤川学園の歴史をリサーチしてみると、まず気がつくのが、戦前と戦後の強い文化的つながりである。藤川延子は昭和9年にドレスメーカー女学院を卒業し、「藤川洋裁研究所」を開設している。その他に、例えば田中千代を代表として、戦後活躍する服飾デザイナーはほぼ例外なく、戦前から戦中期を通して活動した人物たちである。藤川学園の卒業生(後に教員)へのインタビューにおいても(2004.04.26 17:00〜18:00実施)、藤川学園の初期の教員たちは「上流階級の出身」であることが指摘された。戦後のアメリカナイゼーションとのつながりのなかで洋装化を考えることももちろん重要ではあるが、実際戦後の洋裁学校のなかで話題になるのは常にパリでもあるし、その点からも単純なアメリカナイゼーションではないことは伺え、また多くの人の証言が示唆するように、戦前から続く洋裁文化とそれに隣接する文化の戦後への翻訳という側面からも理解しなければいけない。京都には皇族の親戚の久邇静子が設立した久邇洋裁学校という象徴的な学校も存在しており、戦勝国への羨望が洋装化をもたらしたといったような、単純な話ではないことが分る。こういった戦前の上流階級文化の流入は、モガ→国防婦人→パンパンという単純化された歴史の再検討を迫るものでもあろう。
 藤川学園は学生数が増減する度に学校を移転しているのだが、その最盛期には、京都の中でも繁華街に非常に近い河原町御池にある「本能寺会館」という建物を借りて授業を行っており、昼間部と夜間部を合わせて2000名もの学生が所属していた。現在でも学生街は風景からして違うように、当時藤川学園が河原町御池の風景に対して与えた影響は少なくないものがあっただろう。同じように、昭和39年の京都市の和洋裁学校生徒数は19,700人で、藤川学園ほどの巨大な学校はそれほど数はなかったが、京都市内に60校もの学校があったとの記録もあり、それだけの数の学生が京都の風景や消費文化に与えた影響は計り知れない。彼女たちは自宅にミシンを保有し、布を購入し、スタイルブックを購入し、それに見習って最新流行の衣服を自家裁縫して着用するなどの、一定の消費パターンをもっていたと思われる。従来、彼女たちは女学生と主婦や職業婦人の間の過渡期的な存在として看過されることが多かったが、専門学校を都市の中の物理的な存在として捉え、将来の主婦や職業婦人を秘密裏に規律・訓練していく装置ではなく、消費者を形成する装置として見る必要性があるだろう。
 藤川学園は、藤川延子の夫の佐久間義雄理事長が、京都朝日会館の館長をしていたということもあり、朝日新聞社とのつながりが深い。朝日会館の一階に分教室を持ち、朝日会館?本能寺会館という建物を軸にした物理的な空間のなかに文化を作るともに、マスメディアも利用した。特に大きなメディアイベントとなったのは、昭和27年の藤川延子の欧米視察で、洋行先からの便りが新聞にも掲載され、ラジオでも放送された。ただし、学生の7割が京都市内に住み自宅から通学していたことからも察せられるように、マスメディア空間も、京都に限られた非常に狭いものであったと考えられる。また、藤川学園では、独自の教科書を作るだけでなく、『モード手帖』という雑誌を昭和32年から約10年間発行していた。『モード手帖』には衣服のパターンや、藤川延子によるパリ・モードの解説が掲載されていたのだが、これも流通範囲は恐ろしく狭いものであったろう。このようなことから浮かび上がってくるのは、東京から同心円状に広がっていくマスメディア空間のイメージとは違う、京都というひとつの都市単位のなかで完結する非常に狭小なマスメディア空間の存在である。こういった狭いマスメディア空間は、現在でも例えばFMラジオやタウン誌のようなものによって引き継がれているが、藤川延子のもたらしたメディアイベントの効力や、複数のメディアや物理空間を横断する柔軟性は現在ではほとんど見ることができない。これはファッションというひとつの軸を持ってこそ見えてくる都市の一断面である。
 藤川学園の学生は、卒業して家庭で裁縫をする以外にも、教員になって学校を開く、独立してデザイナーになる、あるいは企業に所属するなど、色々な形で社会進出を果たしていた。特に黎明期のワコールとは関係も深かったようだし、藤川延子の妹が高島屋のデザイナーであったという証言もある。また、藤川学園の教員たちも、「アトリエ」と呼称される店鋪を自分で開き洋服を販売する傍ら、自宅などで学生を教えたりもした。専門学校に習いに来る側も、教える側も、さまざまな階層から構成されており、需要もさまざまで、その需要に応じて、学校やコースの選択肢が複数存在し、教員同士、教員と学生、学生間の関係性が入り組んで重層的に構築されていた。例えば藤川学園でも昼間部と夜間部があり、そのなかでも学生の習熟度や講義時間に応じてさらにコースが細分化されていたが、社会階層とそのまま対応するようなヒエラルヒーがあったわけではない。先述したように階層における分断があったのは、学生間ではなくむしろ学生と教員の間であり、しかも新たな教員は学生から供給されたので、すぐにそれも見えにくくなった。だからといって全くヒエラルヒーがなかったわけはなく、いかなる価値観や仕組みによって築かれていたかは、詳細に検討していかなければいけない。
 以上のように、藤川学園のケースだけを簡単に見ても、近代家族の枠組みのなかにおける主婦の形成装置、あるいは、女性の社会進出の窓口、としてしまうような見方だけでは、捉えられないような複雑な構造があり、歴史があることが分かる。そしてこれは、藤川学園に限定されたことではなく、この時代における女性と都市文化のひとつの類型であったと考えられる。さらには、専門学校以外にも、工場、小売店など、衣服文化において、女性と社会を結び付けるメディアは数多くあり、それでいて十分に論じられて来たわけではない。あらためてそれらを丁寧に取り上げて、近代の形成に対してどのような影響を与えたかを社会全体の枠組みの中で検証する必要があるだろう。

 以上のように、われわれは細かい歴史を積み上げることによってひとつの通史をつくることを目指しているが、手段として、「物語」と「資料集」という二つの側面をもった「関西ファッション史」の形成を具体的な目標においている。これは別の言葉を借りれば「戦略」ということになろうが、どのような歴史であれ歴史は恣意的に編成された物語であるということを認識しながらも、従来語られてきた物語が照らし出さなかった部分を明るみにするために、敢えて恣意的に物語ることも必要であり、しかしその一方でわれわれ以外の人々が別の歴史を物語れるように、収集したものを収集したままに公開していくことも必要であるという考え方に由来している。
 ただしそのためには、それ以前に多くのことを整理しなければならない。まず、「物語」については、従来の日本ファッション史の「物語」との違いは何か、「物語」の構成方法をどうするかなどといった一筋縄では行かないようなことを明らかにしなければならないし、「資料集」にいたってはさらに複雑な問題を抱えている。文献資料(書籍に限らず、内部流通の教科書、プリント、雑誌、申請書類など)、考古学的資料(パターン、縫い見本、映像、画像、実際に着られた衣服など)、聞き取り資料(対象としては、教育機関、生産業、販売業、主婦など)と多種多様な資料の収集方法をどうするか、どこに、どのような手段で、どのような形で蓄積するか、どのようなデータベースを構築するかなど、われわれの眼前には議論すべきことが山積している。歴史を編纂する作業以前に、技術的な問題を解決していかなければいけないのだ。
 ただ、そういった意味では、この関西ファッション史を編纂する作業は、文字情報以外を多く含んだ物と情報の歴史がいかに編まれるべきかという、とてもラディカルな問いも含んでおり、各方面に対して示唆深い研究となりうることを自負している。関西ファッション史という、一地方の特殊な歴史が投げかける問題は、実は大変深いものなのだ。

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